2021-06-06

【ギーター】Introduction①

2021-06-05

人間として生まれてくることは、進化論の視点、輪廻転生の視点から見ても、簡単なことではないと言われています。

人間だけが、自由意志という、とても稀な能力を授かるので、全ての進化の過程は、人の手の内(自由意志の選択)にあります。

一方、動物の一生は、数年生き延びて子孫を作ることで満たされますから、肉体が成長し大人になることだけが必要で、心の成長は必要ではありません。

人間も肉体的に成長する為に、空腹や喉の乾きを満たし、致命的な事故や病気を避けて生き延び、人生が満たされます。

肉体的が大人になるまでのプロセスは、自然の流れで成長していきますが、心の成長は同じ様にはいきません。

心の成長は、私の手の内(自由意志の選択)にあります。

人間だけが選択するという能力を持っているのですから、内面の成長は自由意志を使い、ダルマを選択する生き方を始めなければいけないということで、それが成長のプロセスなのです。

人間の探求[プルシャ・アルタ]

人間によって追い求められるものは、サンスクリット語でプルシャ・アルタと呼ばれます。

日本人も、インド人も、誰も彼もが共通して求めているものが4つあります。

追い求める普遍的なものは安全[アルタ]と喜び[カーマ]です。

情緒的、経済的、社会的になど、私に安全を与える物は、サンスクリット語でアルタと呼ばれます。

お金や流動資産、証券、土地、人間関係、家、名声、名誉、評価、影響力や色んな権力などがアルタになり得ますが、これらがあることで「私はこんな人、という観念」を増大させ、その観念に安全を与えていることにもなり得ます。

喜びを追い求めることをカーマと言います。

海の幸やアイスクリームなどの感覚的喜び、パズルやクイズを解く、何かの知識を勉強することから得られる知的喜び、美しい星空、日の出や花を楽しんだり、赤ちゃんや動物と戯れたり、絵を観たりすることから得られる美的(Esthetic)な喜びがあります。

美的喜びは、感覚や知性を超えてはいますが、これもカーマです。

人間の目的としてのダルマ

調和から生まれる喜びはダルマと呼ばれます。

友情関係や分かち合い、人を助けることなどから得られる喜びです。

これはアルタやカーマと違う種類の喜びで、お金儲けで仕事をしていない医者や、ボランティアなどの奉仕活動は、この種の喜びを経験します。

その様な仕事に喜びを見出すことが出来る人は、内面の成長と理解力があり、ある種の繊細な感受性がある人だと言えます。

この部分は、人生経験だけでなく教養が必要な部分です。

人は知っている分だけ、人生が豊かになり、知れば知るほど人生は明るくなりますが、知っている以上のことを見ることは出来ません。

これが意味することは、様々なことを知るために時間をかける、ということではなく人生とは正しく満足に生きることで、それには多くの理解が伴うという意味です。

人の成長のプロセスからの喜びは、適切な時に正しいことをすることでもたらされる、全く違うタイプの喜びです。

掃除、洗濯、メールに返事するetc..、すると決めた日にせずに、やり残さず、それをすることで、それを仕上げたという喜びを知ります。

その喜びは、カーマでも、アルタでもなく、何かをするべきことをした、これがダルマです。

理解を伴う知的成長、情緒的成長と共にダルマは成長し、成長すればするほど、人はダルマに忠実に生きる人[ダールミカ]です。

成長するためには、ダルマの理解と、その調和が人生において最も大切なのです。

ダルマに逆らわず、するべきことをして、人は安全と喜びを追い求めるのです。

人間の普遍的な3つの追求は、この様に理解されるべきです。

ダルマに重きを置くので、順番をダルマ、アルタ、カーマと逆さにすることが出来ます。

モークシャ:何からの自由か?

知っていようが、いまいが、誰もが常に自由を求めますが、モークシャを理解する為には人生という荒波の中、ある種の理解や成熟した洞察力が必要とされます。

ですから、誰もがモークシャを他のプルシャ・アルタから識別し、はっきりとした目的として追求しません。

自由とは、とてもポジティブに考えていますが、実際、自由[モークシャ]という言葉はネガティブな意味で定義されます。

束縛、不自由さから自由になりたい、その自由がモークシャです。

例えば牢屋に入れられたら、牢屋から出れず、移動の自由も失い、自由を得たいと望みます。

牢屋という足枷からの自由を求めます。

足を骨折して松葉杖をつくなら、その杖から自由になりたい。

1人で立てない子供は、壁やお母さんの手などの助けが必要で、壁や手から自由になりたくて、子供は自立で立とうと努力します。

この様に自由とは、いつも何かからの自由なのです。

モークシャは、私が望まない事からの自由を意味し、更には、私だけが持つ望みではなく、人間が共通して追い求めるものです。

私が、何か安全[アルタ]にこだわるのは、私自身のある事実を明らかにしています。

私は安全ではないという事実です。

また、何か喜び[カーマ]を追い求めるということは、私は自分自身に満足していないということを明らかにしています。

喜びを求めて何かをするということは、私は私そのものに満足していないということなのです。

私が、常に安全や喜びを求めるなら、私自身が安全で、私自身に満足し、私がそれを知っている時にだけ、私は自由[モークシャ]です。

モークシャは「救世」という意味ではなく、ただある束縛から自分自身を自由にするという意味です。

つまり「私は安全ではない」「私は私自身に満足していない」という観念が根っこにあるのです。

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