2021-06-12
わたしのあるがままの姿として、わたし自身が安全であり満足であると、わたし自身を見るなら、その時、わたしはモークシャです。
わたし自身が安全で、わたし自身が喜びなら、どんな状況の変化も、安全も必要とはしません。
私達は、自分自身を喜ばせる為、世界を操作しようと時間を費やしますが、多くの出来事や状況、そこに働く自然の力、それをコントロールすることは不可能なようです。
中年になり“中高年クライシス”を経験し、そのことを理解し始めます。
結婚や仕事が破綻している、と思っているかもしれませんが、実際には私自身が破綻です。
しかし私達は、あらゆる問題の原因を人生のパートナーなど、他の何かに押し付けようとします。
アルタ、カーマ、ダルマの追求をよく見るなら、本当に探し求めているものはその中には無い、ということが分かります。
真実は、探し求めている人であることから自由になりたいのです。
誰もが、アルタ、カーマ、その先のダルマを求めますが、究極の意味では、誰もがモークシャだけを求めています。
言い換えれば「私は安全では無い」という、私の持つ結論からの自由がモークシャです。
安全を求めている時、実際は安全そのものを探しているのではなく、安全でないことからの自由を求めています。
この識別がハッキリ切り替わるなら、これを学びと言います。
安全を求めることは、とても自然なことです。
「考えや、自分をせっかちにする、このプレッシャーは何だろう?」
そう立ち止まり、考えたことも、理解することも無い人は、安全はいつも自分の外側にあるものと理解します。
その人は「私は安全ではない」と、完全に受け入れ、決して疑わうことも、問うこともありません。
「私は安全ではない」を受け入れ、安全は自分の外側にある、ということから様々な宗教や哲学が生み出されてきました。
同様に、子供の安全は、両親の世話次第ですが、子供は育ってしまえば「両親といれば安心」とは思わず、安全を違う何処かに求めます。
そして、子供が成長すると状況は逆転し、両親の安全が子供の世話次第になります。
安全でない、という問題を持つに値する人は誰もいません。
安全は、問題ではありません。
「私には何かが足りていない」は問題ではなく、真の問題は「私が足りていない」「私が完全ではない」ということなのです。
「私が足りていない」は、人類共通の事実、普遍の事実です。
「私には何かが足りていない」というのは、子供がいない、家がない等様々で、個人によっても、文化によっても異なります。
あなたが欠いているものを完全に満たすことなど決して出来ません。
欠いているものを求めれば、求める程、あなたが欠いているものを作り出します。
人間は、安全と喜びについて「もう十分」とは決して言えないのです。
安全を追い求めるべきではない、と言っているのではなく、人が追い求めること、そのこと自体をただ理解しようとしています。
お金には価値がありますが、お金に安全がある、と考えるなら終わりのない追求になります。
安全でない私は、安全を求める者で、安全だと思われる他の物を付け足しても、実際私は安全になりません。
松葉杖を持っているから安心だ、と感じているのは、私が安全だという意味では無いのです。
松葉杖があることで安全を感じても、「私は安全ではない」という私の中心をなす感覚は残るのです。
私は安全でない、そして私が安全だと思う物も、私と同様に安全でないならどうなるでしょう?
例えば、安全でない人が、他の安全でない人と、安全になる為に結婚するなら、結果は安全ではありません。
安全でない者同士が足し合わされても安全にはならず、2倍安全ではないことになるだけですから。
何が何を掴んでいるのか、誰が誰を掴んでいるのかをあなたは知りません。
何かを諦めきれない時、あなたはその何かにしがみついていると考えるかもしれませんが、それは、その何かがあなたを掴んで離さない、ということなのです。
アルコール中毒症の人は、元々は自由な人でした。
最初にお酒を飲んだ時、グラスにアルコールを注ぎ、グラスを掴み、その人が飲んでいました。
ところが、その人は今や飲んでいないことが分かります。
ハッピーアワーが来るや否や、お酒のボトルが「ここにおいで!」とその人を呼び、その人はゾンビの様にそこへ行きます。
更にボトルは「おいで!私を手に取って!」と言い、その人はそれを手に取り、ボトルは「おいで!私をグラスに注いで!さあ飲んで!」と言い、その人は手に取り、飲みます。
それから「もう1杯!もう1杯!」とボトルが言い、その人はコントロールできず、更にお酒を飲みます。
元々は自由だったその人が、お酒を飲んでいるのでしょうか?
お酒がその人を飲んでいるのでしょうか?
多くの状況の中で、何にしがみついているのかを知る人はいません。
人間関係は言うまでもなく、お酒やカードや賭け事でさえも私を掴む力があるのです。
この世界の時間という枠組みの中にあるものと、安全でない私が、足し合わされた所で、私を安全にしたりはしないことを、私達はよく理解すべきです。
何かに頼らないとか、しがみついているものを手放しなさい、ということではなく事実を理解しようとしているだけです。
「私は安全でない」は事実で、「私が安全を追い求める」も事実です。
私が安全であると思っているものが、安全でない、というのも事実です。
それは、時間と空間に限られたものですから。
持っている安全を手放したら、あなたは安全になると考えるかもしれません。
ある人が、家を手放し、仕事を手放し、銀行口座を捨て、あるスワミの所に行きました。
しかしそのスワミも安全ではなく、自分の弟子を欲しがっていました。
その人がスワミに会う前までは、夫としてつまずき、 父としてつまずき、仕事やお金につまずいていました。
そして今度は、そのスワミにつまずきました。
何かを足すのではなく、手放すことが助けになる、と考えてしまうのは理解の欠如に他なりません。
カーマも同じで、どんな喜びも長続きはしません。
あなたの態度も常に変わるので、以前幸せにしてくれたものは、もう同じ喜びを与えてはくれないのです。
基本的に自分自身に満足していないので、この様に変わり続けることは自然なことです。
ですから、ほんのひと時、あなたは満たされます。
人生における唯一の銀色の裏地は、自分の希望で、これが人を前進させる全てです。
喜びの瞬間がまったく無かったら、人は希望が無く生きていけるでしょうか?
その人は自殺を犯してしまうでしょう。
喜びの瞬間はあるとしても、将来大きな災難があり、何かを失うと分かり、幸せである可能性が無いと考えたら、その人は生きることを選ばないでしょう。
全ての自殺の背後には、この様な考えがあります。
ですから喜びの瞬間は、人を生き延びさせてくれる大切なものなのです。
本当の希望は、わたしだけが必要であるという発見。
わたしが必要としているのは、わたし自身なのです。