आरुरुक्षोर्मुनेर्योगं कर्म कारणमुच्यते ।
ārurukṣormuneryogaṃ karma kāraṇamucyate |
योगारूढस्य तस्यैव शमः कारणमुच्यते ॥६.३॥
yogārūḍhasya tasyaiva śamaḥ kāraṇamucyate ||6.3||
デャーナ・ヨーガを得たいと願う識別のある人の為にはカルマ・ヨーガが手段であり
既にヨーガを得た人には、自分自身の知識[シャマ]のみが手段と言われます[3]
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馬に乗るには方法手段がある様に、ヨーガの馬に乗りたいと思う人がいます[アールルクシュ]。
このヨーガは瞑想[デャーナ・ヨーガ]で、その道具[カーラナ]は、考えに湧き上がる問題の源を扱うこと[カルマ・ヨーガ]です。
ラーガとドヴェーシャの魔力に左右されない考えを得たい、と望む人にとってカルマ・ヨーガは道具となります。
熟考の状態は、意志で作られるものでは無く、カルマ・ヨーガの生き方で、考えの準備が出来ていることで自動的に起こります。
モークシャを得る為の外側の道具[カルマ・ヨーガ]は、内側の道具[デャーナ・ ヨーガ]と密接に関わります。
カルマ・ヨーガが、熟考できる能力[デャーナ・ヨーガ]の馬に乗りたいと願う人[アールルクシュ]の道具です。
カルマ・ヨーガ自体ではなく、カルマ・ヨーガの生き方を持つなら、その人は熟考する性質となります。
そして、あらゆる活動を完全に離れ、手放した状態が培われ[シャマORサンニャーサー]、その人はヨーガ・アールーダになります。
この詩で賢者[ニャーニー]は、ヨーガ・アールーダと呼ばれています。
この完全に執着を離れた状態、あらゆる活動から完全に引き下がった状態は、知識で起こります。
ここでシャマは、全ての行いから完全に引き下がること、行いの全てを手放すことで、知識が道具です。
モークシャのサーダナ、知識は、手放すこと[サンニャーサ]と同じことです。
行いを手放すことは、全ての行いをやめることではなく、知識の観点、つまり”自分は行い手ではない”という理解です。
ですから完全に手放すこと[シャマ]は、知識として理解します。
1.熟睡中、二ルヴィカルパサマーディ(考えが現れてない)
2.考えの習性に気づける隙間(考えが現れている)
3.全ての行いから引き下がる[शमः 1/1 = उपशमः 1/1 सर्वकर्मभ्यः 5/3 निवृत्तिः 1/1 ]