2021-06-26
祈りを捧げる時、その祈りは、自分自身の為です。
それは、何も悪いことではなく、他者や、生きとし生けるもの全てに祈るのは、他の人が幸せなことで、初めて私も幸せなので、結局私の為に祈っています。
他者が不幸なら、私は幸せではありません。
テニスのゲームの中でこのことを見ることが出来ます。
勝者が負けた相手と握手をする為、有頂天のまま息を切らせてネットに近づいた時、その意気揚々さは少し陰ります。
相手の気持ちが分かるからです。
この様に、他の人が幸せでなければ、あなたも幸せになれないのです。
アルタとカーマを望み、努力をし、その努力が十分だと思えない時「祈り」と呼ばれるもう1つの努力をします。
祈りはアルタでもカーマでもなく、ダルマです。
祈りを通して、アルタやカーマをもたらす目に見えない結果を求めているのです。
スピリチュアルなものを追い求めている人は、アルタやカーマの為ではなく、知識と成長の為に祈りますが、これも自分自身の為です。
人間の、この特徴はとても重要で、ヴェーダーンタの世界観のもととなります。
私がすることは、私自身の為ということを知れば、あらゆる物事が有意義になり、意味のあるものとなります。
行うものごとには、収まる場所があり、ありとあらゆる物事は、あるべき場所に収まることに気づきます。
それぞれの行いが、それぞれの分野で重要で、それぞれ独自の結果を生み出すのです。
耳が目よりも優れているとか、また目は耳より良いとか言えず、どちらも必要です。
目はそれ自身のエリアを持ち、耳もその領域があるのです。
同様に、それぞれの内臓、腎臓、肝臓、心臓、肺、はそれぞれの領域を持ち、1つ1つが重要です。
しかし、全ての物事がそれぞれのあるべき場所に収まる為には、スタート地点は適切でなければなりません。
適切なスタート地点とは、私がするどんな行為も、何らかの結果の為で、その結果は私の為だけにあることを知ることです。
行う全てのことが、私自身の為だけにあることを理解したら、私の持つ関係さえ、とても客観的になるでしょう。
全てのトラブルの原因である「あなたの為に私はこんなに尽くしたのに」とは言わなくなります。
アルタやカーマを追い求めるのは、私は安全ではない人で、不幸せな人だということを2つの視点で明らかにします。
私は本当に何が欲しいのか?
私は安全や幸せを与えてくれる物を求めているのか、それとも、安全と幸せが欲しいのか?
安全と幸せを求めているのだから、あらゆるアルタやカーマは、ただただ安全と幸せだけになってしまいます。
私が、安全で無ければ、当然安全を求め、幸せで無ければ、幸せを求めます。
しかし、私が欲しいのは安全そのものではなく、本当に求めているのは「安全では無い」ことからの自由です。
安全の面で、満足、幸せの面で私は不足しています。
ですから、不足している人から自由になりたいので、その為に私自身が安全でなければなりません。
私が安全でも幸せでも無いとして、自己暗示の様なもので自身を安全で幸せだと見るなら、別の幻想に陥ることになります。
「私は安全」という幻想に陥るより、「私は安全でない」その方がまだマシです。
安全で無いことを知っていたら、少なくとも客観的でいれますし、私の問題が理解できます。
ですから、人は、自分自身が安全であると見る為、安全でなければならないのです。
「私は幸せ」と言える為、人は幸せでなければならないし、真の幸せを理解しなければなりません。
私が安全や幸せになる。
あるいは既に私が安全で幸せである。
2つのどちらかで、自分自身が安全で幸せだと見ることができます。
訳あってここでは「なる」と「ある」の2つの違った言葉を使っています。
自分自身を安全でも幸せでも無いと見ているので、私達は安全に、幸せになろうとします。
人生における足掻きは、全て「なろう」とするプロセスです。
安全で無いので、安全に「なる」ことを探し求めるのです。
分析の結果として言えることは、人は同じものを求めているということです。
俯瞰するなら、人はあれこれ、まるで違うものを求めている様に見えますが「安全であること」と「幸せであること」という2つの共通したゴールを見ます。
いつか安全になり、いつか幸せになることを願っています。
例え、アルタとカーマを探し求めていても、安全でないこと、幸せでないことからの自由を求めているのです。
これがはっきりと理解されなければならないことです。
不足している人からの自由を求めているなら、人は皆モークシャを求めているのです。
この様に言うと、モークシャがあらゆる目的の中の1つに聞こえますが、モークシャこそが最終目的なのです。
あらゆる目的の背景にある最終目的であり、この結末を理解することが、人生の集大成です。
サムサーラ、安全で無いこと、不幸せが終わります。
歳を重ねることが人生の集大成ではなく、あなた自身が安全で、幸せであると識別することが人生の集大成です。
あなたが安全で幸せである、という事実が識別されたなら、例え様々なアルタ、カーマの追及を続けても、モークシャへの必要な第一歩を踏み出したことになります。
どんなに小さな一歩でも、この教えに一歩踏み込んだということが、必要な一歩を踏み出したということです。
モークシャという言葉に不安になることはありません。
勉強し、悟るとしても家族に何が起きるのかと不安がる必要はありません。
家族は、あなたの情緒不安定や不幸せを扱う必要がなくなるのですから、幸せになることでしょう。
悟れば、感じていたプレッシャーも明らかに少なくなります。
人生でやり遂げるべき、より良いことを得たのですから。
そうでなければ人生は問題です。
例えば、結婚自体が、目的自体になり得ません。
結婚が目的になるなら、それは問題で、結婚は終わってしまいます。
結婚は手段であり目的では無いのです。
「私は安全では無い」からの自由は、夫婦の共通の目的で、互いに助け合い、仲間として一緒に旅をするのです。
人生の最終目的としてモークシャを識別し、求めることは、人生を有意義なものにします。
アルタやカーマの追求を妨げること、結婚生活を手放すことではありません。
モークシャがゴールという識別が無いなら、人生はただのラットレースの様です。
レースに勝利しても、ねずみは、ねずみであり続けるというラットレースの意味をいつも思い出すべきです。
ヴィジョンは明らになりました。
自由とは、私自身が安全で、幸せな人だと知ること、つまり安全で無いことからの自由、不幸せであることからの自由です。
人生における様々な苦闘は、私が安全では無く、幸せでは無い、ということから始まり、自分に何か安全を付け足すことで、自分は幸せになるだろうと考えます。
人生は何かに「なること」となり、その途中で傷つき、年をとり、様々なことが起こります。
根本的な問題が認識されなければ、人生は無駄になり、1人の人間の人生が費やされたということだけになってしまいます。
これが人生だとしても、良いことと言えば、いつも次のチャンスがある、その次も、またその次もあるとヴェーダが言い、これは、ある程度の満足感をもたらすにしても、根本的な問題の解決策ではありません。
「自由に成る[becoming]」が無いなら、私は自由でなければなりません。
だとすると、私は既に自由であるはずなのです。
更に、私は既に自由で、それなのに自由を探し求めているなら、私は既にそうである何かを探し求めているということです。
私は、私が自由を求めていることを知っていますが、私が自由であることを知らないのです。
ですから、私が既に自由であることを知らないことが問題なのです。
自分自身の無知があるなら、自分自身を知る為に知る手段[プラマーナ]が必要です。
ある知る手段で知られるものは、他の知る手段では知られません。
例えば、目によって色や形が知られますが、耳では知られません。
私自身以外の物を知る為、私が使える基本的な知る手段は知覚ですが、私自身(主体)は聴覚や触覚で捉えられる物、形や色、味、匂いなどの様な知覚の対象物になりません。
音、色や形、匂い、味、触という属性を持つ物(客体)が、私の感覚器官で捉えられる物です。
しかし私は、この知る手段、つまり知覚を使う人(主体)ですから、私自身を知る為の手段として知覚を使うことは出来ません。
人の知覚は、顕微鏡や望遠鏡などの道具を使い、精度が高められ、より良いデータを集め、知覚に基づく推理を、より鋭くし、能力を増やすことが出来ます。
より良いデータは、明らかに今までの理解に疑問を投げかけます。
例えば、東の空に日が昇り、西に沈むのを見れば、知覚データで、太陽が昇り、または沈み、地球は動かないという結論を持ちますが、太陽が動くのを目で見るからと言って、太陽が動くことにはなりません。
太陽は動く様に見えても、もし北極にいたら、東から西へは動かないことが分かります。
より良いデータがあれば、以前の結論がひっくり返ります。
この新しい結論が、追加のデータと推理の為の基になります。
同様に、グラスの水の中に棒を入れると、棒が曲がったように見えます。
水には、棒を曲げる力があると思うかもしれませんが、水から引き上げると、棒は曲がっていないことが分かります。
あなたの結論や知識は、棒は曲がっていない、棒が水の中にある間は曲がって見えて、それは目の錯覚だと理解されます。
より良いデータに基づいた結論は、全て正当性があり、様々な結論は、推理という知る手段[プラマーナ]で得ることができます。
ここで疑問が沸き起こります。
私自身は、つまり推理や知覚を使う私自身(主体)は、これらの知る手段の対象になりますか?
なりません。
しかし同時に、私は私自身を知らなければなりません。