यदा हि नेन्द्रियार्थेषु न कर्मस्वनुषज्जते ।
yadā hi nendriyārtheṣu na karmasvanuṣajjate |
सर्वसङ्कल्पसन्न्यासी योगारूढस्तदोच्यते ॥६-४॥
sarvasaṅkalpasannyāsī yogārūḍhastadocyate ||6.4||
感覚の対象物、行いに対し執着することが無い時
全ての欲望の原因を手放した人であり、自由を得た人と言われます[4]
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この詩でクリシュナは、行い手であるという観念が当てはまらない人[ヨーガ・アールーダ]について述べています。
その人は満たされていて、感覚の対象物や、行いの結果に全く執着しないので、聖典に規定されている行い、世俗的な行いにも「私がしなければならないという考え[カルタッヴャ・ブッディ]はありません。
毎日しなければならない行い[ニッテャ・カルマ]
四季折々にしなければならない行い[ナイミッティカ・カルマ]
子供や、健康、富、天国など、ある願望を満たす行い[カームミャ・カルマ]
聖典で禁止されている行い[プラティシッダ・カルマ]
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一方カルマ・ヨーギーは、しなければならないことをする、という考えがあります。
「私は行い手である」と見なしている人が反応し、「自分は行い手では無い」と思っている人は全く反応しません[カルマス ナ アヌシャッジャテー]。
サンカルパは「私は行い手[カルター]である」、「私は体験者[ボークター]である」という観念を表わしています。
感覚の対象や、行いの結果に執着しない人は、サルヴァ・ サンカルパ・サンニャーシーです。
サルヴァ・ サンカルパ・サンニャーシーは、行い手や、体験者の観念を持ちません。
「これがなされねばならない」「これが得られなければならない」「あんな風になろう」「世界を自由にしよう」「世界を救おう」等、ファンシーで、大袈裟な考えは、自己についての間違った観念です。
行い手であるという観念[カルトゥル・トヴァ]を持たない人が、サルヴァ・サンカルパ・サンニャーシーです。
カルトゥル・トヴァがあればカルマ・ヨーギーです。
カルトゥル・トヴァがあるところには欲望[カーマ]があり、カーマがあれば常に行い[カルマ]があり、これがヨーガに変更されるべき行いです。
カルトゥル・トヴァがなくなれば、成し遂げるべきものは無いので、全ての行いはプラーラブダに従ったものだけになります。
故にクリシュナは、たとえ行いに携わるとしても、あらゆる世界で、未だ達成されていないもの、達成されるべきことなど何もないと述べているのです。
カルマそのものに、縛り付ける様な性質は無く、私を行いに縛り付けているのは「重要な人になろう」「行いをして何かを達成しよう」という観念、それらは、幻想であり、サンカルパです。
あらゆるサンカルパを持たない人が、サルヴァ・サンカルパ・サンニャーシーと呼ばれます。
サルヴァ・サンカルパ・サンニャーシーは「なろう」という理想ではなく、理解されるべきものです。
理解した人がヨーガ・アールーダ、つまりニャーニーなのです。
クリシュナは、サルヴァ・カルマ・サンニャーサのことを、この詩で述べています。
行いを駆り立てる欲望を手放さない限り、全ての行いを手放すことなど出来ません。
そして「私は全体である」と知らない限り、欲望を手放すことなど出来ません。
このことを知り、行い手であるという観念は去り、全ての欲望を手放すことが出来るのです。
欲望、執着、行いを手放すことは、ただ自己[アートマー]が全体である、ということを理解することに他なりません。