千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】Introduction⑤

2021-07-03

私を知る為に、どんな知る手段があるのか?

私が存在することを知る為に、知る手段は必要ではありません。

私が存在することは、私が知っています。

知る必要があることは、私が何者であるかです。

私とは、自分自身について持つ結論通りの者でしょうか?

私は安全では無いのでしょうか?

私が安全で無いと結論づけている理由は何でしょうか?

今の時点では、私が安全では無いと結論づける主な理由は、無知だと知るだけで十分です。

どんな間違いも無知が主な原因です。

しかし、間違いには、それを引き起こす偶発的な理由があります。

例えば、ロープを象と見間違えるという、間違いは不可能です。

しかし、ロープを蛇と見間違える、もしくは似た様なものと見間違えることはあります。

同様に「私は安全では無い、幸せでは無い」という典型的な結論に導く自分自身の無知があります。

無知という、おおもとの原因と、その結論に至る必然的な原因があります。

無知を追い払うことが出来るのは知識だけで、知識は、知る手段が無くては定着しません。

ペニシリンの知識の様に、偶然に発見された知識も、発見に先立つ多くの知識があって、知る手段が必要無かった、ということではありません。

今日では、この特殊な知識に出くわした Alexander Flemingのお陰で、心臓移植などの、ある種革命的な外科手術が出来ます。

感染症は、このペニシリンに屈服してしまいました。

「出くわすこと」「運良く見つけ出すこと」も知識の道具です。

彼は、全体の状況を見抜く能力で、適切な知る手段(ここでは推測)や、経験から、特殊なカビがバクテリアを殺すと結論付けました。

知識を導き出す特別な状況に偶然出くわすのです。

知識が、知性に定着する為には、その状況を認識しなければならず、この認識が、知識という意味です。

考えは除外される必要がありません

「悟りを得た考え」は、考えを取り除くことでは、成し遂げられないことを知るべきです。

知識はいつも相応しい“知る為の手段[プラマーナ]”で得られます。

それぞれの知る為の手段は、それぞれのエリアをカヴァーし、他の知る為の手段のエリアと重なりません。

色を見る為には、ただ目だけが色を見て、鼻が色を見ることは無いし、色を知る為に目以外の知る手段は無い、これに議論の余地はありません。

私が、自分自身に出くわせないなら、何をしても自分自身にずっと無知なままなのでは?と誰かが尋ねるかもしれません。

もしそうであれば、神への帰依だけで十分なのでは? 聖典の学びなど必要ないのでは? 帰依者であれば、私が死んだ時、モークシャを得る事が出来るのでは? 帰依者として生きるなら、天国に行って、神と共に座れると思っているかもしれませんが、あなたはまだ無知なままです。

一方、今生や過去世で捧げてきた祈りの報いが、本当の自分自身[アートマー]を知る為の手段に出くわすこと、自己を知る手段は何なのか?に導きます。

これら全てがヴェーダに語られています。 では、自分自身を知る為の道具は、知覚や推測以外でなければならないことを見てきました。

与えられた知覚や推測では知れないなら、それ以外の手段しかなり得ず、言葉が[シャブダ]それにあたり、知る為の手段です。

そういった言葉が、ヴェーダーンタと呼ばれ、それは私達、つまり人類と共にあります。 私達は、それを啓示(見えない世界のベールが取り除かれる)と言います。

推測や、知覚では捉えられない、真実の知る手段としてヴェーダを尊敬します。

この様に知る手段[プラマーナ]としてヴェーダを受け入れることが、シュラッダーです。

※ヴェーダーンタを理解する為の伝統な論理手法として、ウッタラ・ミーマームサーと呼ばれる学問があり、ヴェーダーンタのプラマーナとしての有効性が論理的に明らかされ、更にプラマーナであるヴェーダーンタの教えの有効性が論理的に明らかにされます。

知識の道具[プラマーナ]としてのヴェーダ

「ヴェーダは、天国のような所がある」と言いますが、これについて私は証明も否定も出来ませんから、ヴェーダは天国について知る為のプラマーナです。

証明も否定も出来ないことが、ヴェーダのエリアで、ヴェーダの定義です。

「天国がある」「死後の世界がある」「全ての人、全ての物には終わりが無い」など、ヴェーダの言葉は証明出来ませんし、行いの目に見えない結果、があることも証明出来ません。

プンニャは正しい行いの結果で、ハーパは間違った行いの結果であるとヴェーダ言います。

論理的に分かる(矛盾していない)ことではありますが「個々に生じたプンニャ・パーパに対し、ある種の痛みをもって報いなければならない」とヴェーダは言い、これをカルマの法則と呼びます。

この様なヴェーダの言葉に、私は証明も否定も出来ません。

得たい結果の妨げになるもの、理由の分からない要因を扱う為の特別な祈りや儀式(子宝に恵まれることを妨げる要因を扱い、子供を授かる儀式など)が全てヴェーダで語られています。

この様な儀式と結果、推測や知覚が使えないエリアのことがヴェーダに述べられていますから、私はそれを受け入れます。

様々な儀式、祈り、行い、結果などが記されるヴェーダの前半[プールヴァ・バーガ]は、カルマ・カーンダと言います。

どんな知る手段を使っても知ることが出来ない“自分自身の知識”をヴェーダの終わりの部分[ヴェーダ・アンタ]が扱い、ニャーナ・カーンダ、もしくは後半[ウッタラ・バーガ]と言います。

知識は知られる必要があり、それは考えにのみ定着するので[मनसा एव  अनुद्रष्टव्यम् ]、考えを超えて、自分自身の知識を得ることはできません。

自分自身の知識は、物(対象物)の知識では無く、とても特有な知識です。

その知識の道具が、ヴェーダ最後の部分[ヴェーダーンタ]、ウパニシャッドと言われます。

サンスクリット語も、他の言語も、どんな言葉でも、間違いを取り除き、人の本質、人の真実を明らかにする言葉はヴェーダーンタです。

ヴェーダーンタの文字通りの意味は、ヴェーダの最後ですが、ヴェーダという言葉自体の意味は知識体です。

この知識体が、人類に利用可能で、人がしなければならないことといえば、それを使うということだけなのです。