2021-07-10
啓示によって、この知識は起こりましたが、これには啓示という言葉の理解が必要です。
ヴェーダーンタを含む、全ヴェーダは、明かされた(啓示された)知識である、と言うのは中途半端な言葉ではありません。
ヴェーダは人に創作された知識では無く、聖者[リシ]に明かされた知識で、聖者がヴェーダの作者でもありません。 聖者はマントラを見た者で、マントラを創作した者ではありません。
ですからヴェーダは、人間の知性から生まれた物では無い[ア・パウルシェーヤ]、知識の道具[プラマーナ]だと見なされます。
前半のヴェーダは、様々なゴールとそれを得る為の手段、後半のヴェーダは自己の知識を明かします。
ヴェーダは人間の知覚や推理では得られない知識を明らかにします。 言葉という形の知識の道具[プラマーナ]が働く領域は「あなた」で、「あなた」について話をします。
今あなたは、今までは持っていなかった知識の道具を持ちます。
あなた自身について何かが語られる時、真実でも、偽りである可能性もあります。
そしてそれは、自分自身で真実かを確かめるしかない、個人的な証明のトピックです。
ここでの啓示という言葉は、適切な知識の道具の観点から理解されるべきで、自己認識への第一歩は、明らかにされた知る為の手段としてヴェーダーンタを受け入れることです。
ヴェーダーンタは「知識の道具」では無い、と否定出来ず、自己証明以外の証明を必要としません。
例えば、生まれながらに盲目の人が、35歳で最新の外科手術をするとします。
その手術は成功率が高いと考えられていて、主治医も見える様になると確信しています。 包帯を外し、主治医は「目を開けて下さい」と言います。
しかしその人は「私の目が見えると、先生が証明してくれるなら、目を開けます」と目を固く閉じて言います。
その人は、自分の目が、景色を捉えることの出来る「知識の道具」であることを証明して欲しいと、主治医に頼んでいるのです。
主治医は「手術は成功したし、見えない理由は無いから、あなたの目は見えるはずです」と言えるだけです。
主治医が、その人の目を無理やり開けたとしても、唯一の証明は、その人自身の目で色、形が見えるということだけです。 既に多くの方法で、あなたは問題を解決しようとしてきましたが、ヴェーダーンタは「あなたの問題には、あなたが解決で、他には解決はない」と言います。
ヴェーダーンタは「あなたが解決になる」と言わず、「あなたが解決だ」と言います。
「あなたが解決になる」とは、特定のコミットメントと、将来を見越して投資を含むので、全ての「なる」は不確定を伴い、解決が見つかるかどうかは分かりません。
ヴェーダの示すリアリティでは、知られているもの、知られてはいないものも全てがブランマンで、そのブランマンがあなたです。 「タット トヴァン アシ」というヴィジョンを持ち、無知と間違いで、自分自身に押し付けたあらゆる限界から自由であることを人は知るのです。
このヴィジョンの為、ヴェーダは2つのコミットした生き方を定めています。
1.行いの生き方[プラヴルッティ・マールガ]
2.行いを手放した生き方[ニヴルッティ・マールガ] シャンカラは、ヴェーダによって明かされるこの2種類のダルマを示し、バガヴァッド・ギーターの解説の紹介をします。
ここでダルマは、宗教的、あるいはスピリチュアルな追求として理解することができます。
宗教的であろうと、そうでなかろうと全ての行いはダルマであると見なされますから、それは義務です。
これがプラヴルッティの生き方です。 プラヴルッティの生き方は2つの側面があります。
1つは、この世やあの世で安全や喜びを成し遂げる為、もう1つは、自分自身の成長の為、自分自身の考えをきれいにする[アンタハ・カラナ・シュッディ]の為の生き方です。
ですからプラヴルッティ・マールガを追求している2種類の人がります。
両方がヴェーダに沿った生き方をしていますが、片方は目先の安全や喜びを得る為です。
両方がヴェーダを知識の道具[プラマーナ]として受け入れヴァイディカと呼ばれ、ヴェーダを信じる人[アースティカ]とも呼ばれます。
一方、ニヴルッティの生き方は、権利や義務を手放したライフスタイル[サンニャーサ]と呼ばれます。