千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】Introduction⑨

2021-07-31

ギーターを理解すること

ギーターが何を語るかを知る為には探求[ヴィチャーラ]が必要です。

ギーターは、エッセンスですから、ギーターが言わんとすることを十分に理解するために、当然人は全体のシャーストラを知らなければなりません。

アルジュナは、ある程度のバックグラウンドはありましたが、ギーターを理解するのは簡単ではなく、何度も質問をしました。

アルジュナにとって簡単でないなら、ヴェーダや同じバックグラウンドのない現代人にとっては、明らかに簡単ではありません。

ですから人は「知識の道具」としてヴェーダーンタの教えが必要であるだけでなく、先生[グル]が必要なのです。

先生が必要

「グル」という言葉には暗闇や無知を意味する「グ」、それを取り除く人を意味する「ル」の2つの文字があります。

グルとはシャーストラを教えること、無知である暗闇を取り除く人のことを言います。

教えそのものが「知識の道具」だとしても、それを紐解く方法論があります。

先生[グル]は、これらの言葉の意味を紐解くことが出来る人を言います。

イーシュワラから下って、先生と生徒の繋がり[グル・シッシャ・パラムパラー]があります。

あなたが先生を尊敬し感謝の気持が満ちる時、あなたの尊敬や感謝が、先生の伝統の始まりであるイーシュワラのところまで届くのです。

このグル・パラムパラーに感謝と尊敬を示します。

どうやって先生を選ぶのか?

最も良い先生は、人間の問題全体を勘違いとして見ている人です。

「あなたは問題を持っている」という人がいるなら、その人はあなたを操りはじめるでしょう。

しかし「あなたが見ている問題は、勘違いだ」と言う人は客観的に物事を見ています。

私が本当に不十分で限られた人であるなら、どんな助けがあろうと無かろうと、私が足りていないという問題を解決する方法はありません。

限りあるものは、どう転んでもいつも限りあるものです。

しかし「私が全体のひとかけらなら、私はいつも全体のひとかけらに過ぎない」という必要すらありません。

もし私が全体であるなら「私はひとかけらです」という結論は勘違いですから、抜け道は自分自身を光の中で見ることです。

問題は普遍的な勘違いであり、あなただけの個人的な勘違いでは無いという人なら、その人はグルかもしれません。

私は全体であるからこそ、自分自身を受け入れることが出来ます。

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परीक्ष्य लोकान्कर्मचितान्ब्राह्मणो निर्वेदमायान्नास्त्यकृतः कृतेन ।

parīkṣya lokānkarmacitānbrāhmaṇo nirvedamāyānnāstyakṛtaḥ kṛtena |

तद्विज्ञानार्थं स गुरुमेवाभिगच्छेत्समित्पाणिः श्रोत्रियं ब्रह्मनिष्ठम् ॥ १२ ॥

tadvijñānārthaṃ sa gurumevābhigacchetsamitpāṇiḥ śrotriyaṃ brahmaniṣṭham || 12 ||

ブラーンマナはこの世での行いの結果として叶うものを吟味し考えてみる。

その人がその知識を得るために、シュロートリアでブランマ・ニシュタの先生にどうか正しくアプローチしますように。

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先生は、この教えを良く学んだ人[シュロートリア]で、この知識に十分根付いている人[ブランマ・ニシュタ]です。

その先生が知識に十分根付いている人である事を、どうやって知るのでしょう?

その人が知っているのか、知っているふりをしているだけなのかを知ることができる様に、社会は十分な情報を与えられるべきです。

その人は、知っているふりをしているのではなく、自分は知っているという思い込みに陥る可能性もあります。

その様な人は、自分が知らないことを知りません。

その昔、インドの社会ではこんな問題は無く、誰も彼もが最終的にはサンニャーシーになると考えられていましたから。

人生の最後のステージ、サンニャーサです。

結婚し、様々なことがあり、それらを放棄する時が来ます。

結婚生活を放棄するというのが、結婚生活の一部と考えられていて、そのことが究極の目的と理解されていました。

夫婦は成熟していて、サンニャーサの人生を送るために十分自立しているということです。

引退する者として、引退するための成熟だけが必要なのです。

インドの社会では、サンニャーサのステージの生き方を尊敬していましたし、ヴェーダがそれを定めていたので、サンニャーシーとして最低限の必需品は、当然社会から充てがわれたのです。

このステージの生き方に入るのを見送る人はいましたが、最終的には誰もがサンニャーシーになるよう期待されていました。

手放した人としての先生

サンニャーシーとは、既にその知識を得た人か、その知識を追求している人です。

サンニャーシーになったなら、勉強することや教えること以外に義務はありません。

移動するサンニャーシーや、ずっと滞在するサンニャーシーを見るでしょう。

その先生が、その知識があると認められているかどうかは別として、あなたが何を求めているかを自分で認識しているなら、あなたはその先生が知っているかどうかを知ることが出来ます。

あなたが何を求めているかを認識しないなら、誰もが先生としてまかり通ってしまい、騙されてしまうのです。

この知識の勉強を続けている人は、研究熱心な人で、シュロートリアと呼ばれ、この知識にコミットメントした人が、ブランマ・ニシュタと呼ばれます。