2021-08-07
教える為に登場人物の個性、対話である必要もありませんが、どんな教えも、ギーター全体も対話形式です。
自分自身についての何かを教えるために、対話の中の個性が、物語[アーキャーイカ]の形で表現されます。
ウパニシャッドも同様に多くの登場人物の名前があります。
何故「あれがあなたです[タット トヴァン アシ]」を告げるだけではないのでしょうか?
物語仕立てにするのは、サンプラダーヤ、教えの手順や方法を解き明かす為だけになのです。
どの様に学ぶべきか、どんな種類の知識なのかを明らかにするためです。
対話や話し合いには4種類あります。
1.ヴァーダ
対話する両者は同等で、あるテーマについて、より深い理解を得るために、話し合い、検討しあう、という健康的で建設的な対話をヴァーダと呼びます。
サンスクリット文法のような、インドの伝統的な学問では、生徒同士が集まり、議論しながら互いの理解を深め合う「ヴァーダ」を、知識の修得過程の重要な一部としています。
それを教える詩節があります。
आचार्यात्पादमादत्ते पादं शिष्यः स्वमेधया ।
ācāryātpādamādatte pādaṃ śiṣyaḥ svamedhayā |
पादं सब्रह्मचारिभ्यः पादं कालक्रमेण तु ॥
pādaṃ sabrahmacāribhyaḥ pādaṃ kālakrameṇa tu ||
生徒は、先生から4分の1を得て、自分の記憶力や努力によって4分の1、生徒同士のディスカッションによって4分の1、そして最後の4分の1を、時間の経過によって得るのです。
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ヴェーダーンタに関しては、そのプラマーナを使う人の資質が十分であれば、ヴェーダーンタの教える知識を得る為に必要なのは、ヴェーダーンタというプラマーナのみなので、これは完全に通用するものではありません。
2.ジャルパ
互いが既に確たる信念を持っていて、平行線を辿るだけの対話をジャルパと言います。
「正しいのは自分だけ」「間違っているのは相手だけ」と、両者ともが互いに主張するだけの対話を指します。
3.ヴィダンター
相手を否定することのみに専念した言葉のやりとりです。
「あんたの言っていることは全部間違っている!」
なんで?
「あんたが言っているから!」
というタイプの無意味な対話です。
嫉妬や、憎しみといった類の理由から、他方の間違いを証明しようとします。
4.サムヴァーダ
先生[グル]と生徒[シッシャ]間での、質問と答えからなる対話を、サンヴァーダと呼びます。生徒は先生として受け入れ、その人を尊敬しています。
話し合いはありますが、「私は生徒で、この人が先生だ」という了承をもとにした対話ですから、全く態度が違うのです。
この態度は「あなたには問題はない」ということを証明しない限り続きますが、教わることが何も無いことをあなたが発見するなら、あなたは友達になることができます。
先生が何を言っているか分からないなら、時には先生のいうことが矛盾している様に見えたりしますが、疑問を持ちながらも、先生の言うことを自分が理解できていないと解釈します。
先生と生徒の対話[グル・シッシャ・サンヴァーダ]において、ギーターでの主題はブランマ・ヴィッデャーとヨーガ・シャーストラで、一言で言えばヴェーダーンタです。
先生はバガヴァーン、ヴァスデーヴァの息子のクリシュナです。
生徒はパールター(プルターの息子)、カウンテーヤ(クンティーの息子)と呼ばれるアルジュナです。
アルジュナには、ダナンジャヤ、サッヴャサーチ、グダーケーシャなど多くの名前があります。
生徒であるアルジュナと、先生のクリシュナ神の間で対話がありました。
ギーターは、そこで教えられた知識体で、サムヴァーダと呼ばれます。
先生が、もし矛盾しているように見えるなら、生徒は疑いを持ちつつも、その先生の言わんとすることを自分が理解出来ていないだけだと解釈することが、
生徒に期待されることです。
「ブランマンは、対象物として考えで捉える事は出来ないが、考えによって理解される」とは、矛盾しているように見えますが、それで完璧です。
矛盾していると思うなら質問することが出来ます。
そして信頼[シュラッダー]に基づいた生徒の質問はパリプラシュナと呼ばれます。
先生は教えていることを正確に知り、矛盾があるべきではありません。
グル・シッシャ・サンヴァーダという言葉で示される態度は、特にここで関係があります。
全体の教え自体が「知識の道具」ですから、それは哲学的な憶測ではありません。
更に私達は学術的な関心から学ぶのではなく、この教えの価値は自分自身について知ることです。
私は自由でありたくて、その価値が私に知りたいと思わせます。
人として自由でありたいし、自由であること以外の目的では学ぶのではありません。
そこに価値があり、そして教え自体が「知識の道具」なので、この教えや先生に対し、ある種の態度が必要なのです。
教えが対話の形で先生から学ぶという事は、それが理解されるべきものだからです。
理解しようと努めることで、鵜呑みにすることではありません。
信仰においては、ただ鵜呑みにすること、疑うことなく完全に受け入れるだけです。
ヴェーダーンタは信仰ではありませんから、教えられていることに関心があるなら、態度と取り組み方の全てが変わります。
この教えは、先生から受け取り、その内容は理解されなければならないのです。
サーッデャ・ヴィシャヤとシッダ・ヴィシャヤという2つの主題があります。
サーッデャとは、sādhという動詞の原型に、「~されるべきもの」という意味のyaという接尾語を付加して、サーディヤ(達成されるべきもの)」という言葉になります。
天国をはじめとする私達が何か達成されるべきもの、対象を指すときに「サーッデャ(達成されるべきもの)」という言葉が使われます。
それはあらゆる方法で成し遂げられます。
行いですから、多くの選択が可能です。
しかし、成し遂げなければならないものが、既に成し遂げられている[シッダ]のに、それを知らない時は選択の余地はありません。
行いとは違って、知識は、いつもそのものの真実ですから、選択の余地がありません。
林檎(りんご)という知識は、いつも林檎という物の真実のことです。
例え、それを違うものと見ているとしても、知識の道具[プラマーナ]と、その知識(林檎)が整う時、つまり目がしっかりと見えていて、考えが働くなら、目の前の林檎を見ないわけにはいきません。
そこに選択はありません。
既に成し遂げられた真実[シッダ・ヴィシャヤ]を知るためには、その知識が定着することを妨げる何かを取り除く為に適切な探求が必要です。
あなた自身の知識を何が妨げているのでしょう?
妨げが何であるか分かったなら1つ1つ取り除かなければなりません。
なぜならあなたは「ブランマン」なのですから。
それは制限も条件もない存在です。
今ここにいる、あなたと時間的にも空間的にも離れていない、あなた自身であるべきです。
これは既に成し遂げられた事実についての知識なのですから、この知識は間接的ではなく、直でなければなりません。
教えを学んだのに知識が起こらないなら、間違い、曖昧さ、疑いという妨げがあるのです。
先生と生徒の間の対話によって、その妨げが取り除かれます。
5+3=100-92
幼い子供は、5+3=8という等式が理解できても、100-92=8の等式は理解出来ないかもしれません。
無知が取り除かれた時、この等式がイコールであることが分かります。
シッダ・ヴィシャヤを得るためには、理解と探求が必要です。
「あなたはブランマンです」という知識は、単に信じること(信仰や信念)ではありませんから、生徒は質問があるなら、質問できるのです。
そしてもし、何か信じる話題に出くわしたなら、それは信じる話題です。
例えば「この人は私の母です」という言葉を証明する方法はないですから、信じることに他なりません。
赤ちゃんがすり替えられなかったなどと、どうして確かめられますか?
多くの立証する証拠はあるかもしれませんが、それでもまだそれは信じることの1つです。
それは知覚で得た直接の知識ではありません。
多くの信じているだけのことがあります。
それが信じていることだと理解される限り、信じていることは何も問題ありません。
けれどもまた、知らなければならない多くのことがあります。
ギーターの主題は理解される為のものであり、信じる為のものでないことを強調するために、先生と生徒の対話として表現されているのです。