बन्धुरात्मात्मनस्तस्य येनात्मैवात्मना जितः ।
bandhurātmātmanastasya yenātmaivātmanā jitaḥ |
अनात्मनस्तु शत्रुत्वे वर्तेतात्मैव शत्रुवत् ॥६.६॥
anātmanastu śatrutve vartetātmaiva śatruvat ||6.6||
自分自身で自分を制御した人にとって、自分こそが友人です。
しかし、自分自身を上手く扱えない人にとっては
自分自身がまるで敵として、対立する状態であり続けるでしょう。
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自分自身を制服した時(シャマが出来ている時)、自分にとって自分は友達です。
征服し得る、客観的に扱えるものは、体・考え・感覚の複合体[カーリヤ・カラナ・サンガータ]です。
この複合体が、自分自身の探求、自分を自制すること、意志や努力によって扱われます。
この自分自身によって[アートマナー]もサット・チット・アーナンダ・アートマーではなくヴァシーです。
体・考え・感覚の複合体を統括した人がヴァシーで、自分自身の味方です。
考えたり、探求したり、理解したり、覚えたりする力[ニャーナ・シャクティ]
願う力、欲する力[イッチャ―・シャクティ]
行動したり、作ったり、何かをする力[クリヤ―・シャクティ]
これら3つの力は、ヴァシーの性質にあり、ヴァシーは、カーリヤ・カラナ・サンガータ全てを自分のものとして扱います。
混乱したサンカルパがある人は、これら3つの力に連れ去られます。
ヴァシーとして、体・考え・感覚の複合体を扱う時、シャクティーを持ち、カーリヤ・カラナ・サンガータが、望ましいものを得るために役に立つものになるのです。
ブランマ・ローカや、モークシャに運びます。
ブランマンが叶い得る最高のもので、わたしは既にブラフマンです。
私は、体・考え・感覚の複合体を統括する人としての力を授かっている、そのことを理解します。
ダルマに沿った生き方をすることにより、プンニャを得て、カーリヤ・カラナ・サンガータがバンドゥになります。
モークシャを得るためにも役立つものになります。
カーリヤ・カラナ・サンガータを手中に収めたならば、同じカーリヤ・カラナ・サンガータが、いつも私に恩恵を与えるものとなります。
しかし、逆に、うまく扱いきれないのであれば、それは自分を虜にしてしまうことになります。
バンドゥになることはできず、敵[リプ]になり、障害を生み出し、邪魔をするような存在になります。
この詩では、自分を手中に収めていない人をア・ナートマーと呼びます。
カーリヤ・カラナ・サンガータが敵の状態のままの人、つまり、自分自身が敵の役割を果たすような人
のことです。
クリシュナは、自分以外には、敵はいないと、はっきりと述べています。
一般的には、自分以外の人を指差して、敵だと言います。
身近にそういう人がいないなら、悪魔や他の惑星のせいにして、他の人や何かに、妨げられていると感じます。
いつも、自分で思い込んだ恐れを人に抱き、その恐れで、誰かを敵だと指差すようになります。
私自身が、自分を邪魔することを許さない限り、誰も邪魔したり出来ません。
にもかかわらず、人はこうした被害妄想をある程度持ち、それに苦しんでいます。
人をとがめるときに突きつける人差し指で敵を指差す時、残りの3本の指は、自分のほうに向いています。
この3本の指、肉体・考え・感覚[カーリヤ・カラナ・サンガータ]が、唯一の敵であると言われます。
自分の外側の敵が害を及ぼすように、自分自身が敵として害を及ぼすのです。
死や病気、コロナウイルスも敵の様に思うとしても、ある特定のウイルスが強くなり同居するのは、何か生態系のバランスが崩れていて、そのバランスを取り戻そうとするイーシュワラの姿かもしれません。
「不満」を分析すると、考えが引き起こしていることが分かります。
不満を持つ人は、世界はひどいものだと評価を下し、この世界から離れたいと望み、「良い」と想像する世界に行こうとしますが、「良い」とは幻想です。
この良い世界も、以前のひどい世界と同じことに気付きます。
それは、敵である自分の考えを一緒に連れていくからです。
考えは、どこに行く時も一緒です。
天国に行く時も、同じ考えを伴うので、そこでも問題を見つけます。
それは、繰り越し引き継がれます。
どんな場所や状況でも、同じ考えを持つので、この不満の多い考えが、いつも何かちょっとしたことで不満を言う理由を見つけます。
これが「自分こそが、自分自身の敵である」とクリシュナが言う意味です。
自分の観念に従い、解釈するような考えを持つなら、助けになる存在であるグルでさえ、あなたの助けにはなれません。
結局、あなたこそが唯一の友達[バンドゥ]なのです。