ज्ञानविज्ञानतृप्तात्मा कूटस्थो विजितेन्द्रियः ।
युक्त इत्युच्यते योगी समलोष्टाश्मकाञ्चनः ॥६.८॥
jñānavijñānatṛptātmā kūṭastho vijitendriyaḥ |
yukta ityucyate yogī samaloṣṭāśmakāñcanaḥ ||6.8||
自己の知識に満足した考えを持つ人、変わらずにある人
感覚器官、行動器官を統括した人、土の塊も、石も金も、全て同じように見る
こういった整った考えを持つ落ち着いた人を、ヨーギーと言います
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カルマ・ヨーギー、瞑想のある[サンニャーサ]生活の人、またニャーニーのことをクリシュナはヨーギーと呼びます。
この詩でヨーギーは、知識を得た人[ニャーニー]です。
ヨーギーという言葉を使い、モークシャの知識を得る上での順序をクリシュナは指摘しています。
瞑想の話題に移る前に、自分を向上させ、自分を台無しにすべきでないこと、あらゆる対極にも動じず、この知識を得たい人はカルマ・ヨーガの生活に専心しなければなりません。
これらを全て述べてから、ヨーガの馬を乗りこなした人[ヨーガ・アールーダ]、智恵を得た人についてクリシュナは議論します。
こうした賢者をこの詩でニャーナ・ヴィニャーナ・トゥルプタ・アートマーと呼びます。
ニャーナもヴィ・ニャーナも知識を意味しますが、一緒に使われる時、ヴィ・ニャーナは、ある特別な知識[ヴィシェーシャ・ニャーナ]で、ニャーナ以上の何かを指します。
シャンカラは解説しています。
ニャーナは、シャーストラの言葉の意味によって伝えられる特別な知識。
ヴィ・ニャーナは、完全に吸収して理解した自分の知識[アパロークシャ・ニャーナ]。
「アートマーはブランマンである」というシャーストラの言葉は明らな知識ではありますが、理解されるべきことで、事実を認識しなければなりません。
シュラッダーに満ちた洞察、発見を待っている間(据え置きにされたもの)の信頼感の形で、知識がとどまっている段階があり、そして自分がブランマンである可能性が確立されます。
シャーストラが述べていることが知り遂げられるとは、個人と神と世界の違いについて話しているのか、これら3つは違いがないことを話しているのかについて、混乱はないという意味です。
シャーストラの知識[ニャーナ]が、ヴィ・ニャーナに変換されます。
そのために、分析[マナナ]と、熟考[ニディッデャーサナ]があります。
知識の準備がきちんとできている人[アディカーリー]の考えであれば、この変換は必ずしも必要ではありません。
その人は、見極めていて[ヴィヴェーカ]、執着を手放しているので[ヴァイラーギャ]、知識を受け取るなら、事実をその場で理解できます。
過去や未来にこだわらず、成熟しているので、理解のための邪魔になる問題が全くありません。
これは、人として1番良識ある考えであり、サンニャーシーが持つ考えです。