
ज्ञानविज्ञानतृप्तात्मा कूटस्थो विजितेन्द्रियः ।
युक्त इत्युच्यते योगी समलोष्टाश्मकाञ्चनः ॥६.८॥
jñānavijñānatṛptātmā kūṭastho vijitendriyaḥ |
yukta ityucyate yogī samaloṣṭāśmakāñcanaḥ ||6.8||
自己の知識に満足した考えを持つ人、変わらずにある人、感覚器官、行動器官を統括し た人、土の塊も、石も金も、全て同じように見る、こういった整った考えを持つ落ち着 いた人を、ヨーギーといいます。
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この詩におけるヨーギーは、最終段階である「知識を得た人[jñānī]」を指しています。
クリシュナはここで、単に知識を提示するだけでなく、そこに至るまでの順序を強調しています。
瞑想に入る前に、人はまず自分自身を向上させ、対極する状況に動かされない土台を作る必要があります。
そのためには、まずカルマ・ヨーガの生活に専心しなければなりません。
こうしたプロセスを経て、ヨーガという馬を乗りこなした人[yoga-ārūḍha]、すなわち智慧を確立した人について、クリシュナは議論を展開しています。
◎知識の定義
この詩の「ニャーナ[jñāna]」は聖典[śāstra]の言葉を通じて伝えられる知識をです。
一方、「ヴィッニャーナ[vijñāna]は、その知識を完全に自分のものとして吸収し、妨げ[pratibandhaka]が一切ない、直接的な知識[aparokṣa-jñāna]です。
シュラッダーに満ちた洞察、発見を待っている間(据え置きにされたもの)の信頼感の形で、知識がとどまっている段階があり、そして自分がブランマンである可能性が確立されます。
聖典が示す「自分はブランマンである」という教えを、単なる情報の保持から事実の確認へと変えるために、分析[manana]や熟考[nididhyāsana]が行われます。
これにより、聖典の知識が、直接的な知識[aparokṣa-jñāna]へと変換されるのです。
知識の準備がきちんとできている人[adhikārin]の考えであれば、この変換は必ずしも必要ではありません。
その人は、見極めていて[viveka]、執着を手放しているので[vairāgya]、知識を受け取るなら、事実をその場で理解できます。
過去や未来にこだわらず、今この瞬間に整った考えを持っていることが、サンニャーシーに象徴される成熟の証です。
こうしたプロセスを経て、知識と理解の両方によって満たされた人[tṛpta-ātmā]こそが、真の賢者と呼ばれます。
◎熟した考えは、最もまともな考え
お金を持っていず、お金が欲しいなら私は貧しい人で、その貧しい状態が問題になり得ますが、お金を持っていたら持っていたで、それを維持し、守るという問題があります。
この様にお金持ちも、貧しい人も問題はあるのです。
お金も、持ち物も全く持たず、不足など無い(何も求めない)、何かを維持し、守ることに執着がない人は、最も良識のある人で、ただあるがままの自分自身であるサンニャーシーです。
その人がシャーストラを聞くなら、ニャーナからヴィ・ニャーナへの変換は必要なく、耳を傾け[śravaṇa]、理解を深めていく[manana]間に、疑問は解決し知識[vijñāna]を得ます。
◎ニャーナから、ヴィ・ニャーナへの変換の必要性
この過程で、アートマーに関するニャーナがヴィ・ニャーナに、すなわち直の知識[aparokṣa-jñāna]なります。
シャーストラは、間接的な知識[parokṣa-jñāna]ではなく、事実「あなたはブランマンです[tat tvam asi]」を述べるだけです。
この世界観は事実ですから、間接的の知識にはなり得ません。
相対的に言うのであれば、ヴェーダでないと明かせないエリアは、永遠に間接であるエリアの知識[nitya-parokṣa-jñāna]です。
ヴェーダーンタでないと明かせないエリアは、永遠に直である知識[nitya-aparokṣa-jñāna]です。
プンニャ・パーパ、カルマとダルマの法則、
「アートマーはブラフマン」に関する理解への洞察[parokṣa-jñāna]は、ヴィ・ニャーナとは異なります。
ニャーナをヴィ・ニャーナに変換するために「私が全体[brahman]」に関するシュラッダーが、分析[manana]と熟考[nididhyāsana]の助けとなります。
この、「間接の知識」から「直の知識」への変換の過程は、アパロークシー・カラナ[aparokṣī-karaṇa]または、スヴァーヌバヴァ・カラナ[svānubhava-karaṇa]と呼ばれます。
アヌバヴァ[anubhava]とは、ヴェーダーンタでは直の知識のことです。
この知識に関して、それこそが「自分自身[sva]」であることを明示した言葉が、スヴァーヌバヴァ[svānubhava-karaṇa]です。
もはや洞察も、可能性も、信じる話題でもなく「私はブラフマンである」という事実について、直の知識があるだけです。
その疑いのない知識がヴィ・ニャーナです。
◎アラム・ブッディ、「満たされている」という知性を持つ人
ニャーナと、ヴィ・ニャーナによって、人は自分自身に満たされていて、完全であるという認識を持っている人[jñāna-vijñāna-tṛpta-ātmā]です。
シャンカラは「十分である[alam]という理解[pratyaya]が生まれた人[sañjāta]」と定義しました。
自分自身の本質は元々、完全[pūrṇa]であり、何も自分から離れて存在しない「全体」です。
賢者はこの自己の栄光を認識しているため、状況に関わらず常に満足しています。
ここでの「アートマー」は考えを指します。
知識が直の知識に変換されることで、その人の考えそのものが「十分だ![alam]」と告げるようになります。
「jñāna-vijñāna-tṛpta-ātmā」という複合語[bahuvrīhi-samāsa]の中の、アートマーという言葉は、考え[antaḥkaraṇa]を指します。
洞察とシュラッダーから生まれた考え方を持つ人のことです。
このシュラッダーの態度は、自己についての直の知識[vijñāna]に変換されたニャーナから生まれます。
この言葉は、賢者の定義を表すだけでなく、知識そのものの本質を明かす定義にもなります。
これがサンスクリット語の素晴らしいところです。
◎アートマーとして、賢者は、どんなものにも動かされない
鉄床(かなとこ)[kūṭa]は、熱い鉄の塊を打ち鍛えるための台のことです。
その上で鉄が様々に形を変えていく間も、台座自体はハンマーの打撃に耐え、決して形を変えることがありません。
同様にアートマーは、どんな変化が起ころうとも、自分自身は変わることなく、変化をあるがままに受け入れている人です[kūṭastha]。
そのあり方が、不変のアートマーそのものです。
シャンカラは、クータスタを「いかなる状況にも揺り動かされない人[aprakampya]」と定義しました。
この揺るぎなさは、単なる我慢ではなく、自己が完全であるという知識に基づいています。
この人は、カルマ・ヨーガ、デャーナヨーガのライフスタイルで、祈りや、シャマの儀式など必要な鍛錬、聖典の学びを経て完全であるアートマーの知識を得ています。
あらゆる問題が存在するのは無知ゆえで、この知識を得ると自分を妨げるものは何もありません。
◎思いやりの本質
人の真の美しさは外見ではなく、強さ、優しさ、そして他人への思いやりに宿っています。
本当の思いやりとは、自分の時間、考え、智慧、財産などを他人と共有する心構えのことです。
この「分け合える準備ができていること」こそが、真の強さであり豊かさです。
他者の苦しみを見て自分まで溶解(感情的に崩壊)してしまうのは、本当の意味での助けにはなりません。
助ける側が共に倒れてしまえば、連鎖的な混乱を招くだけです。
必要とされているのは、内側から満たされていることで生まれる「揺るぎない思いやり」です。
自分自身がすでに満たされている[tṛpta]からこそ、相手を支える強さを持つことができ、真に相手の役に立つことができるのです。
◎資質がどのように自発的な(自然な)美徳になるのか
人を感覚の対象へと駆り立てるのは、制御されていない考えが生み出す「空想」です。
目が何かを見たがったり、耳が刺激を求めたりするのは、考えが空想に支配されているためです。
自分の「したい・したくない」という衝動ではなく、「すべきこと[dharma]」を基準に行動できる人をヴィジタ・インドリヤ [vijitendriya]と言います。
かつて探求者[mumukṣu]であった時に努力して行っていた修練[sādhana]が、智慧を得た賢者にとっては「自動的で自然な振る舞い」へと変わります。
このように考えが整い、智慧と行動が一致している人を「ユクタハ[yuktaḥ]」と呼び、これこそがクリシュナの説く真の「ヨーギー[yogī]」です。
◎唯一の安全というのは、自分でいて、安全であるということを知ること
賢者は「土と石と金を等しく見る者[sama-loṣṭāśma-kāñcana]」と呼ばれますが、それは物質的な区別がつかないという意味ではありません。
賢者は、金には高い市場価値があり、土にはないという社会的な事実を十分に理解しています。
しかし、それらが自分に「安心」を与えてくれるかどうかという点において、反応が全く同じなのです。
一般の人は金や財産に安全を求めますが、賢者は「唯一の安全はアートマーである」と知っています。
自分がいなければ、世界そのものが存在しないという真実を理解しているため、外側の所有物に安全を依存する必要がありません。
金は腐食せず、原子量も特異で、希少性があるという「客観的な価値」は認めつつも、それを過大評価しません。
どれほど金が価値あるものであっても、人は金を食べることはできないという「物事の限界」を冷静に見極めています。
賢者にとって、金は単なる「便利な金属」であり、自分の幸福や生存を保証する「救い」ではありません。
この依存からの自由こそが、土と石と金を等しく見るという態度の本質です。
◎不安は、主観的な価値によって、もたらされる
金を安全の象徴と考えがちですが、高価な金を預かれば、盗難を恐れて眠れなくなります。
一方で、価値のない古い掃除機を預かっても、安眠を妨げられることはありません。
実際には、富は安心ではなく「不安」を連れてくる側面を持っています。
大金を持ち歩くとき、人は周囲を警戒し、かえって隙を作ってしまいます。
客観的に見れば、お金そのものが自分を守ってくれるわけではなく、むしろ守るべき対象(重荷)が増えているのです。
お金の「客観的な価値」とは、あくまで購買力や生活の快適さを提供する道具としての機能です。
しかし、そこに「自分の存在を確かなものにする安全」という機能まで期待してしまうと、それは「主観的な価値」となり、依存と苦しみを生みます。
賢者は、お金に快適さを買う力があることを認めつつも、それが自分の本質的な安全(安心)を保証するものではないことを知っています。
この客観的な視点が、先に述べられた「土も石も金も等しく見る[sama-loṣṭāśma-kāñcana]」ということです。
◎私が安全です
思考、感情、肉体、そして外側の世界はすべて、時間の流れの中で絶えず変化し、始まりと終わりを持っています。
しかし、それらすべてを認識している「私」だけは、何ものにも傷つけられず、影響を受けない唯一の安全なものです。
自分自身がすでに安全であるという知識[vijñāna]が確立されると、世界に「恐れ」や「依存」といった無意味な主観を投影する必要がなくなります。
その時、世界はあるがままのシンプルな姿として現れ、人はその中でくつろぐことができます。
自由や安全は、どこか遠くから手に入れたり、努力によって作り出したりするものではありません。
なぜなら、それは「私」の本質そのものだからです。
何かを生み出そうとする努力を続けている限り、すでにここにある「自分」を見失ってしまいます。
この教えが難しく感じられるのは、それが「あまりにもシンプルすぎる」からです。
人は大きな何かを成し遂げて自由を得ようとしますが、実際には、自分は「すでに安全であり、すでに自由である」という事実に気づくこと、それだけです。
◎金に問題があるのか、それとも、その人に問題があるのか
弟子の思い違いを通して、「執着のなさ[vairāgya]」とは何かを考察しています。
弟子は「自分の先生は金なんて目もくれないほど清らかだ」と言いたいために、「金が枕の下にあるだけで眠れないほど敏感なのだ」と物語を作り上げ、そのように解釈しました。
弟子は、ヴァイラーギャを「物を遠ざけること」だと思い込みました。
しかし、本当のヴァイラーギャは「物があろうとなかろうと、自分の安全が左右されないこと」です。
この物語がグルの偉大さを物語るものとして語られるとき、弟子の理解の限界を露呈しています。
弟子がグルを称える言葉が、かえってグルのを世俗的なレベルに引き下げてしまっているのです。
真のマハートマーであれば、金の上であろうと土の上であろうと、等しく眠れるはずです。
なぜなら、彼にとっての安全は「外側の物」にはなく、自分自身に確立されているからです。
金がそこにあろうとなかろうと、彼の静寂が乱されることはありません。
◎人間関係も含んで、金とは、あらゆる望ましいものを代表している
金[kāñcana]は、私たちが「これさえあれば安心」と信じ込んでいるあらゆるものの代名詞[upalakṣaṇa]です。
驚くべきことに、そこには「神が私を守ってくれる」という二元論的な信仰心さえも含まれます。
「神が私を守る」という考えには、神と私という二つの存在を前提としています。
しかし、真実において神と私は一つであるなら、守る側も守られる側も存在しません。
多く人が「神はいるのか、いないのか」「私の神だけが本物」などに焦点を当てますが、「神とは何か?」がヴェーダーンタです。
神だけがあります。
神は、彼自身を守りますし、それは自分自身です。
サマ・ローシュタ・アシュマ・カーンチャナである人の安全は、どんなものにも頼ってはいません。
土や石や金、全てに対し、こだわり無く平等に見ます。
人は、金を資産としますから、金は、本質的な価値[īśvara-sṛṣṭi]と、上乗せした価値[jīva-sṛṣṭi]両方を持ち、それこそがまるで安心感を与えます。
不安な人は、金があっても、安全にはなりません。
安全でないものは、いつも安全では無いのです。
賢者は、自分自身だけが安全であるとみなします。
安全になるために、この世界で金などを必要とせず、まさに唯一安全な人です。
この詩でクリシュナは、世界のあらゆる物に対する賢者の見方を描写し、次の詩では、様々な人に対する賢者の態度を描写します。
