
सुहृन्मित्रार्युदासीनमध्यस्थद्वेष्यबन्धुषु ।
suhṛnmitrāryudāsīnamadhyasthadveṣyabandhuṣu |
साधुष्वपि च पापेषु समबुद्धिर्विशिष्यते ॥६.९॥
sādhuṣvapi ca pāpeṣu samabuddhirviśiṣyate ||6.9||
利益をもたらしてくれる人、友人、敵、知人、仲裁者、嫌われるに値する人、親戚、善人(サードゥ)や罪人に対して、その人の見方は全く変わらないという人。その人は、 最も優れた人です。
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冒頭の長い複合語は、多様な人間関係を網羅し、シャンカラはそれらを「1つのまとまり」として定義した上で、各項目を詳しく分析しています。
賢者は、味方・敵・善人・罪人というあらゆる対象に対し、分け隔てなく等しい態度[sama-buddhi]で接します。
このような「サマ・ブッディ」を持つ人こそが、あらゆる人々の中で最も卓越した人です。
◎支援者[suhṛd]と友人[mitra]
見返りやお礼を一切期待せず、純粋に恩恵をほどこし手を差し伸べてくれる人、一般的な友情を超えた、極めて稀な存在が支援者[suhṛd]です。
仲が良く、相互の理解や友情を分かち合っている人が友人[mitra]です。
◎敵[ari]
こちらが何もしていなくても、相手の嫉妬や信念の違いによって、一方的に敵意を向けられる対象です。
賢者にさえ、このような敵が存在し得ます。
例えば、ヴェーダーンタを教える人は「全てがブラフマンである」と言うだけで、サタン(悪魔)だと見なされるかもしれません。
◎知人[udāsīna]と仲裁者[madhyastha]
会釈を交わす程度の知り合いや、争いがあってもどちらの側にも加わらず、ただ観察しているだけの人が知人[udāsīna]です。
「間に立つ人」で、対立する両者に関与しながらも客観性を保ち、和解をもたらす人が仲裁者[madhyastha]です。
スイスのような中立国の役割に例えられます。
皆が幸せになれるよう、人々の間に理解をもたらそうと努める人[hitaiṣin]は、仲裁者[madhyastha] の性質の一つでもあります。
◎人々が社会である
「社会」というそれ自体の実体があるわけではなく、実際には個々の人間が集まって成り立っているのが社会の本質です。
この詩で挙げられた多様なタイプの人々は、あらゆる時代のどの社会にも普遍的に存在します。
人々が集まる場所には、必然的に対立や言い争いが生じます。
そこには、味方となる友人や敵が現れ、同時に、和解をもたらそうとする者や、ただ傍観する者も存在します。
◎嫌われるに値する人[dveṣya]と親族[bandhu]
その人の振る舞いや人となりが原因で、どうしても好きになれず、嫌悪の対象となる人が、嫌われるに値する人[dveṣya]です。
父母や兄弟、親戚などが親族[bandhu]です。
彼らは単なる血縁以上に、その意見や評価が自分の感情や心理に大きな影響を与える、心理的な結びつきの強い人々であったりもします。
◎善人[sādhu]と罪人[pāpin]
ダルマ・シャーストラに規定された規律に厳密に従い、正しい行いを選び、過ちを避ける人が、善人[sādhu]です。
すべきことをせず、すべきでないことをする人が罪人[pāpin]です。
これには、現代の麻薬問題のように、ダルマシャーストラが書かれた時代には存在しなかった事象も含まれます。
聖典で「アルコールを避けるべき」と述べられているのは、あくまで代表例[upalakṣana]で、ヘロインなどの麻薬も含め、自分に害を与えるものすべてを代表して禁じています。
◎どうして人は、反抗するのか
人は「〜してはいけない。(ex.酒を飲むべからず[surām na pibet])」と言われると、かえって反抗したくなるものです。
この反抗心は、内側のプレッシャーから生じます。
単に恐れから規律を守るのではなく、知識と理解に基づいて喜んで規律に従う人には、この内側のプレッシャーがなく、人生は心地よいものとなります。
子供時代のしつけや内面の問題に起因する「不健全な反抗」と、独自の理解や世界観に基づく「健全な反抗」があります。
後者の例として、伝統的な母親の期待(結婚して家庭を持つこと)に背いてスワミになることが挙げられます。
社会や親の目から見れば反抗者ですが、これは高い理解に基づく選択です。
内側のプレッシャーに突き動かされ、スリから組織犯罪まで、社会におけるあらゆる種類の間違った行いをする人をパーピー[pāpin] と呼びます。
この言葉は、規律を逸脱するあらゆる形態の人々です。
◎人と関係を持っているのか、それとも、定義と関わっているのか
私たちは通常、他人を「友人」や「敵」といった枠組みに当てはめて見ています。
しかし、それはその人自身と関わっているのではなく、自分が作り上げた「定義」と関わっているに過ぎません。
例えば「敵」という定義を完全に満たす人間など実在せず、それは自分の想像の世界に生きていることを意味します。
人が他者にラベルを貼るのは、自分の中に不安や痛みがあり、自分を守りたいという防衛本能(体裁や仮面)があるからです。
私たちは盾や仮面を通して世界を見ており、そのフィルターが他者のありのままの姿を遮っています。
知識によって完全に自由になり、自分自身に満足している人[jñāna-tṛpta-ātmā]には、守るべき体裁も仮面もありません。
そのような人は、先入観や定義を持たずに、考えと感覚を備えた「シンプルな一人の人間」として他者と対面します。
定義に左右されないありのままの視点[samabuddhiḥ]があります。
◎賢者は、決して人を非難しない
サマブッディを持つ人は、支援者と罪人の違いが分からないわけではありません。
それぞれの性質を正しく認識した上で、相手を非難したりレッテルを貼ったりしないのです。
「罪人」がいるのではなく、ただ「パーパな行為をしてしまう人」がいるだけであると理解しています。
私たちは通常、相手の富や学識、社会的地位、過去の経歴などによって、近づいたり避けたりといった反応をします。
しかし、知識によって満たされた賢者[jñāna-tṛpta-ātmā]は、相手がサードゥであろうと、パーピー であろうと、それらに左右されることなく、一人の人間としてあるがままに対面します。
他者を自分の定義や期待に当てはめず、あるがままに受け入れるとき、そこに初めてダイナミックな新しい関係、真の関係が生まれます。
これは、自分自身が内面的な恐れや防衛から自由であるからこそ可能なのです。
◎判断されることへの恐れ
人が人前で話すのを恐れたり、他人の目を気にしたりするのは、人類共通の性質です。
しかし、実際には他人が自分をどう思うかよりも、「他人が自分をどう思っているかについて、自分自身がどう考えているか」という自分の思考にコントロールされています。
社会が自分をコントロールしていると感じるかもしれませんが、実際には「社会がどう思うか」という自分自身の考えが自分を縛っているに過ぎません。
人は皆、自分のことで精一杯であり、他人のことを細かく考える余裕などないというのが現実です。
賢者は他者を批評しません。
この「批評しない」という姿勢は、まず自分自身への評価を下すことをやめる(自分自身をあるがままに受け入れる)ことから始まります。
自分への批評がなくなれば、必然的に他者への批評もなくなり、そこには評価を超えた自由な存在としてのあり方だけが残ります。
他者の考えを変える必要はありません。
訂正すべきなのは、「自分自身についての自分の間違った考え(ex.自分は限られた人)」です。
◎正していくには時間がかかる
自分の精神状態、技術、容姿、年齢、体重などに基づき、自分を特定の基準で評価することはすべて根本的な間違いです。
自分自身は「評価されるべき対象」ではなく、「理解されるべき対象」です。
知ること[jñāna]とは、価値判断を下さず、自分の本質をあるがままに見ることを意味します。
自分や世界に対する認識は、多くの場合、誤解に基づいています。
私たちは自分に対して「自分は限られた存在」という自己催眠をかけてしまっています。
この教えの目的は、そのような条件付けを取り除きますです。
この催眠を解くプロセスの果てに、自分自身が「限りのない、満たされた存在」であり、「sat-cit-ānanda-ātmā」という真実に至ります。
◎賢者は、ヨーギーの中のヨーギー
知識によって満たされ、あらゆる人をあるがままに見て批評しない賢者は、ヨーギーの中でも最も優れた人です。
賢者でない人々の間には理解の深さに差がありますが、真理に到達した賢者たちの間にはそのような優劣の差は存在しません。
この詩の最後の言葉「viśiṣyate」は、シャンカラの時代の写本(椰子の葉に書かれたもの)では、卓越している[viśiṣyate]という言葉が、解き放たれる[vimuccyate])と記されていた可能性があります。
偏見のない人は自由[vimukta]であり、その自由な人こそが最も優れた人であるため、どちらの言葉であってもその真意は同じです。
この詩と前の詩で、「アートマーがブラフマン」という知識を持つ人[ brahma-niṣṭha]が述べられ、この素晴らしい結果をどの様に実らせるのか?が、第6章の主題です。
◎何がなされるべきか?
安全でないことからの自由、モークシャを得る為に、カルマ・ヨーガとデャーナ・ヨーガという側面の手段[sādhana]に従います。
カルマ・ヨーガは、行いに関する態度ということを見てきましたが、次の詩からは、瞑想[dhyāna-yoga]が示されます。
