सुहृन्मित्रार्युदासीनमध्यस्थद्वेष्यबन्धुषु ।
suhṛnmitrāryudāsīnamadhyasthadveṣyabandhuṣu |
साधुष्वपि च पापेषु समबुद्धिर्विशिष्यते ॥६.९॥
sādhuṣvapi ca pāpeṣu samabuddhirviśiṣyate ||6.9||
利益をもたらしてくれる人、友人、敵、知人、仲裁者、嫌われるに値する人、親戚、
サードゥや罪人に対し、見方が全く変わらないその人は、最も優れた人です。
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1行目にある複合語は長く、1つの語[サマスタ・パダム]であることをシャンカラは定義する必要がありました。
シャンカラの定義を1つ1つ見ていききます。
スフルド[suhṛd]は、恩恵をほどこす人、見返りを求めず、手を差し伸べてくれる人で、めったにいない人です。
ミットラ[mitra]は、仲の良い人、ある理解、友情を分かち合っている人のことです。
アリ[ari]は、敵や、敵意を持つ人[シャトゥル]です。
賢者が、誰かを敵とみなすことがあるのか?と、尋ねるかもしれませんが、敵は、必ずしも作られるものではなく「自分自身でいて、いつも幸せである人」は、それだけで、他者に敵意を抱かせることも多いのです。
「あの高い鼻が羨ましい」ということでさえ敵意を抱く十分な理由になります。
何もしなくても、敵意を抱く人がいて、賢者でさえも敵がいる可能性があります。
信念があることで、賢者に対し、敵対する人もいるかもしれません。
例えば、ヴェーダーンタを教える人は「全てがブラフマンである」と言うだけで、サタン(悪魔)だと見なされるかもしれません。
ウダーシーナ[udāsīna]は、会えば会釈する程度の知り合いで、バス停でよく見かけたり、ガソリンスタンドにいたり、一日置きにエレベーターで会う様な人で、それ以上関わりはありません。
マッデャスタ[madhyastha]は、仲裁する人で、2人の人が喧嘩をしてても、中立の立場で、どちらの側にも立ちません。
客観的に仲裁する力があるという信用で指名され、国際情勢において、スイスは、この様な役割を果たしています。
ある国で、もしくは両国の大使館の閉鎖といった、2国間での紛争があれば、スイスは仲裁者として任務を果たすよう依頼されることもあります。
それは、スイスが完全に中立な国であるからで、それゆえ経済的にも利益を得てきました。
マッデャスタは、グループに属したり、対立しているどちらかに加わったりしません。
人は、中立[ウダーシーナ]であることも、全ての人の幸せを望む人であること[ヒタイシー]もできます。
ヒタイシーなら、皆が幸せになれるよう、人々の間に理解をもたらすことを試みます。
そのような人が、マッデャスタで、文字通りの意味は「間に立つ人」です。
これらの人達は、どの社会にも見られます。
と言うより、本当は社会など無く、人があるだけです。
「社会」自体の実体などなく、社会は人で成り立っていて、全ての人々が、この詩で述べられています。
どんな社会にも、これら全ての種類の人々がいて、言い争いや、喧嘩があるなら、いつもそこに友人と敵がいます。
相互に理解をもたらしたい人もあれば、ただ、側で傍観している人もいます。
ドヴェーシャ[dveṣya]は、嫌われるに値する人です。
その人となりや、その振る舞いのために、どうしても好きになれません。
そしてバンドゥ[bandhu]は親戚で、父親、母親、兄弟、姉妹、おじ、おばなど、自分に大きく影響を与える人達です。
自分を良く評価して欲しいので、感情的・心理的にも、彼らの影響を受け左右されます。
この詩で、ダルマ・シャーストラに規定されていることに厳密に従う人をサードゥと呼び、そうではない人を、パーパとかパーピーと呼びます。
サードゥは、どの社会にも存在していて、正しいことに従い、間違ったことを避ける人です。
すべきで無いことをして、すべきことをしないことがパーパ、その行いをする人をパーピーと言います。
アルコールは、飲むべきではないと述べられているから飲まないけれど、ヘロインは摂取するというのは、シャーストラに従っていることにはなりません。
アルコールはウパラクシャナで、害を与えるもの全てを代表します。
人は、「アルコールを飲んではいけない[スラーム ナ ピベート]」というような言及、してはいけないことは、したいと思います。
反抗は、内側のプレッシャーが原因で、冒険心もありますが、それも内側のプレッシャーによるものです。
規律を守る人は良いと一概には言えず、面倒だからとか、恐れから、悪いことが出来ない人もいます。
一方、知識や理解の結果、規律を守る人の人生はご機嫌で内側のプレッシャーもありません。
問題は反抗ではなく、その背景にあるプレッシャーです。
実際、人は皆反抗者で、スワミになる者も反抗者です。
インド人の母親は自分の息子をスワミにしたいとは望まず、母親は皆、スワミを尊敬を示し、ビクシャーやダクシナしますが、それは他人の息子である時に限ります。
反抗は、内側にプレッシャーがあることや、何らかの世界観から起こりえます。
反抗的な性質は、子供時代のしつけなどが原因で、この内側のプレッシャーから、人はすべきでないことをします。
例えば窃盗犯や、マフィアのドン、完全犯罪、知能犯など様々な犯罪がありますが、ここでパーピーという言葉は、社会における、あらゆる種類の間違った行いをする人のことを言います。
私達は他者をあるがままに見ません。
グループ分けや、自分で決め付けた定義で他者を見て、他者と関わるのです。
その様に人をみなす時、人と関わっているのではなく、定義と関わっているのであって、自分の想像した世界に生きています。
その人の体裁が消えた時にしか、この問題はなくなりません。
体裁があり、自分自身の不安や痛みを抱えているので、自分を守るために、盾や仮面を着けて、常に世界と向かい合うのです。
しかし、ニャーナ・トゥルプタ・アートマーは、そのような問題はありません。
知識によって完全に自由で、完全に自分自身に満足しています。
体裁など全く無く、考えと感覚を持つシンプルな人、そのような人をサマ・ブッディと呼ぶのです。
見方が全く変わらない人[サマ・ブッディ]は、利益をもたらしてくれる人[スフルド]は、スフルドとして、パーピーはパーピーとして認識します。
大事なことは、サマ・ブッディは、パーピーとして人を非難しません。
実際、パーピーという人がいるのではなく、パーパの行いをしてしまう人がいるだけです。
人をあるがままに受け入れるこの視点や能力は、自分自身が自由であることを意味し、真の関係をもたらします。
例えばパーティー会場で、大富豪は、同じくらいの富豪か、それより少し上の階級の人を探し、その人達としか話しません。
博学な人に出会うと、その人が学者だというだけで、居心地が悪いかもしれませんし、大富豪や自尊心の高い人を避け、逆にそういう人を探すかもしれません。
友人とは、分かち合うこと、打ち解けることが出来る人ですから、注意深い友人選びは、大切なことではありますが、ここでは賢者[ニャーナ・トゥルプタ・アートマー]の話をしています。
自由な人である賢者は、サマ・ブッディを持ちますから、職業や、地位、星の配置、昔はどんな人で、今は何をしているとか、サードゥかパーピーかは気にせず、他者をこういう人だと決めつけません。
一方、人はジャッジされることを恐れ、他人がどう思うかを気にし、人前で話をすることを恥ずかしがります。
話し慣れている人でさえ怖気づいたりするのです。
「自分自身のことを、どう見ているか?」
そこに勘違いがあります。
人は、人生の多くの時間を、他者にどう思われているか?を考えることに費やし、大きく見せたり、取るに足る人になろうとしますが、考えるべきことは、自分自身の理解と修正です。
他者にどう思われているかを気にすることは、人類全体の問題です。
実際、他者に支配されているのではなく、他者にどう思われているかという恐れ(自分の考え)によって支配されています。
様々な問題を抱える個人は、他者のことなど考える時間など無いのに、私達は、人が自分のことを考えていると思います。
また社会は、誰も支配などしていないのに、社会が自分を支配していると思います。
自分を支配している要因は、社会がどう思うかについての自分自身の考えなのです。
一方、賢者は、主観的な態度で関わることなく、誰に対してもジャッジメンタルを下しません。
一般人はジャッジメンタルを下すけど、賢者はジャッジメンタルを下さない人、という話ではなく、ジャッジメンタルは、終始「自分自身をどう見ているか?」です。
自分自身に対しジャッジメンタルを下せば、自分以外にもジャッジメンタルを下します。
ですから、自分自身や他者に対してジャッジメンタルを下しませんように。
賢者は智恵を得る前に、ジャッジメンタルを下さない練習をしてきたので、それは自然なことです。
ジャッジメンタルを下さないことは、価値があり、ここが意志の使い所です。
資格や、技術、肉体、年齢や体重、肌の色や髪など、自分の考えの基準で、自分をジャッジメンタルを下さないようにします。
自分自身にジャッジメンタルを下すなら、他者にも下すことは避けられません。
この間違った見方は、訂正すべきことで、一朝一夕にはいきません。
自分のことをどう思っているかにはじまり、世界の見方も全て間違って認識していますから、完全な改革が必要です。
私達は自分の都合の良いように、物事を順序立て、正当化します。
これらはジャッジメンタルです。
自分自身の理解とは、ジャッジメンタルを下すことではなく、何なのか知ることです。
知ることはNo choiceで、自分自身の本質をあるがまま理解することですから、全体のヴィジョン(この教え)は、条件付けを取り除くプログラムです。
「こうして私は成功してきた」などと、自分にかけてきた催眠を解くプロセスにより、「わたしは、限りのない、満たされたもの[アハム プールナハ、サット・チット・アーナンダ・アートマー]」という認識に至ります。
ニャーナ・ヴィッニャーナ・トゥルプタ・アートマー
つまりサマ・ブッディは、ジャッジメンタルを下さず、ヨーギーの中でも最も優れた[ヴィシッシャテー]人です。
ア・ニャーニーには、洞察や理解にレベルの差がありますが、賢者にはありません。
賢者と、そうでない人を物差しで図るような事はできませんが、サマ・ブッディという言葉は、ニャーナ・ヴッジニャーナ・トゥルプタ・アートマーを描写するための基準としてクリシュナが使うので、ある比較は可能です。
サマ・ブッディである人は、全ての人に対し、最も優れている人[ヴィシッシャテー]なのです。
この詩と前の詩で、「アートマーがブラフマン」という知識を持つ人[ブランマ・ニシュタ]が述べられ、この素晴らしい結果をどの様に実らせるのか?が、第6章の主題です。
安全でないことからの自由、モークシャを得る為に、カルマ・ヨーガとデャーナ・ヨーガという側面の手段[サーダナ]に従います。
カルマ・ヨーガは、行いに関する態度ということを見てきましたが、次の詩からは、瞑想[デャーナ・ヨーガ]が示されます。