योगी युञ्जीत सततमात्मानं रहसि स्थितः ।
yogī yuñjīta satatamātmānaṃ rahasi sthitaḥ |
एकाकी यतचित्तात्मा निराशीरपरिग्रहः ॥६.१०॥
ekākī yatacittātmā nirāśīraparigrahaḥ ||6.10||
瞑想する人[ヨーギー]は、静かな場所で1人過ごし、体と考えは寛ぎ
執着や所有願望から自由で、常に考えを(瞑想の対象に)繋ぎますように。
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この詩でヨーギーは、常に自分自身についての瞑想をする人[デャーター]です。
クリシュナが与えたアドバイスは、瞑想の対象について熟考するように[ユンジータ]です。
ヨーギーが、いつも[サタタム]、瞑想の対象に考えを結び付けていますように。
サタタムとは、「永遠に」という意味もありますが、ここでは、できる限り長く、多く瞑想すべきであるということを意味します。
瞑想する場所は、静かな場所[ラハシ]です。
シャンカラの時代では、丘の上[ギリ]や洞穴[グハ]でしたから、シャンカラは、丘や洞穴で瞑想する人[ギリ・グハーダウ スティタハ]として解説しました。
また、瞑想する人は1人でいる人[エーカーキー]であるとクリシュナは言い、シャンカラは仲間がいない人[ア・サハーヤ]と言いました。
瞑想は、他者の助けが要るようなことではなく、誰も必要としません。
自分自身の仕事であり、そこではあなた自身が友人であり、自分自身で静かにします。
自分自身の友[バンドゥ]は、自分自身です。
シャンカラがア・サハーヤ(協力者)という言葉を使うのは、サンニャーシーを表すために、エーカーキーという言葉を選んだからです。
サンニャーサは、シャンカラにとって知識[ニャーナ]と同意語です。
ヨーギーは、サンニャーシーですから、当然、妻[バーリャ]を残してきています。
こうした言いつけは、単に指示であり絶対ではありませんから、その真意だけを受け取り、必要に応じて採用出来ますが、サンニャーサの生活を選択せず、家や、妻や子供から離れ、静かな場所に行くことなど出来ません。
サンニャーシーでないのであれば、家にとどまり、義務を果たさねばなりませんから、「家」を意味するグラハを使って、グラハスタと呼ばれます。
結婚した人は皆、何処に住んでいようが、仕事で家に帰れなくとも、果たすべき義務があるという意味で、家に居るのでグラハスタと呼ばれます。
家庭生活[グラハスタ]は、人生の4つのアーシュラマの1つですが、サンニャーシーになるなら、もはやグラハスタではありません。
グラハスタとは、サンニャーサの立場から見たもので、文字通り「家にとどまる人」という意味なのです。
サンニャーシーになる時、離婚という観念はなく、結婚は目的を果たし終え、(情緒的に)成熟し完成したということです。
どちらもお互いを必要とはせず、両方がサンニャーシーですから、家を男性が出て、女性は家に残りサードゥのように過ごします。
サンニャーサは、選ぶものではなく究極のゴールなのです。
静かな場所に1人、ヨーギーの資質を持つ人は絶えず瞑想ができますが、家庭を持つ人は不可能ですから、クリシュナはまずカルマ・ヨーギーについて述べてから、瞑想の生活を送るサンニャーシー[デャーナ・ヨーギー]について話します。
デャーナ・ヨーギーは、ヤタ・チッタ・アートマーとして描写されます。
チッタは記憶ですが、ここでは考え[アンタッ・カラナ]のことを指し、しかし過去の記憶[チッタ]も集中を妨げますので、この詩ではチッタと言われます。
考えは、瞑想中も働き続け、耳が音を捉えるなら音を聞きます。
目を閉じるなど、感覚器官をできる限り引き下げると、瞑想の対象に集中出来るようになります。
アートマーは肉体[デーハ]の意味で、ヤタは様々な問題が上手く対処され、体と考えを自分の支配下に置き、体は完全にリラックスし考えが集中します。
ヨーギーも、この資質もヤタ・チッタ・アートマーという意味になります。
妨げがあっても体はリラックスし、記憶がポップアップしても、考えは瞑想の対象に戻っていきます。
瞑想中、座るためには切望から自由な人[ニラーシーヒ]でなれければならず、内側のプレッシャーなどありません。
内側のプレッシャーとは切望で、ニラーシーヒは、あらゆる切望が無い人です。
切望があれば、静かに座ること以前に、目を閉じ続けることさえ出来ず、イライラするかもしれません。
目を閉じるだけで、全ての切望が湧き出すのです。
目を開ければ考えは、見えるものに注意をひかれ、目を閉じれば、全世界はわたしの中にあるので、様々な切望が妨げとなり座ることさえ出来ません。
ところが、比較的自分に満足し、朗らかなニラーシーヒは執着を離れ、切望から自由です。
瞑想する人は、カルマ・ヨーガの生活をしてきた人で、シャンカラのサンニャーサの定義に従うサンニャーシーの特性がある人です。
デャーナ・ヨーギーは、所有から自由な人[ア・パリッグラハ]と描写されます。
パリッグラハは、蓄える、収集するという意味で、それは誰もがある程度抱える病気です。
物を手放すことは難しく、人は集め続け、それらを手放しても更にまた集め続けます。
手放す能力を常に保ち続け、この事実に気づき、注意を向けている人をア・パリッグラハと呼びます。
ア・パリッグラハという語が、物を集めることから自由だと考えられている人[サンニャーシー]に、どのように当てはまるかをシャンカラは議論しましたが、サンニャーシーでも集める傾向はあります。
1人でも、所有に関しては、ア・パリッグラハではないかもしれませんから、絶えず物を手放し、収集癖を遠ざけます。
ア・パリッグラハは、物を集めたいという欲望からも自由なのです。
物を収集する癖は、サムサーリーに共通する特徴です。
この癖があり、物は集まる傾向もあるので、サンニャーシーは常に、ア・パリッグラハの状態を維持します。
人が、全ての必要な資質を持ち、考えを瞑想の対象に結び付けますように[アートマーナム ユンジータハ]とクリシュナは言いました。
言い換えれば「瞑想しますように」と言うことです。
クリシュナのアドバイスは、サンニャーシーに向けた言葉の様ですが、実際、全ての人がエーカーキーで、誰にでも当てはまる言葉です。
結婚し、家庭を持っていたとしても、少なくとも目を閉じたときは1人[エーカーキー]です。
自分が父親、母親、娘や息子と思うなら、私はエーカーキーではありませんが、あらゆる義務や役割から自由な時、私はエーカーキーです。
全ての役割は、まるで私の内側にあるようです。
ただ、エーカーキーであるため、自分自身であるために、瞑想する時、役割や、それに伴う問題を落とします。
シンプルな人[エーカーキー]、瞑想する人[デャーイー]、ヨーギーであるために、自分自身の役割を脱ぎ捨てます。