तत्रैकाग्रं मनः कृत्वा यतचित्तेन्द्रियक्रियः ।
tatraikāgraṃ manaḥ kṛtvā yatacittendriyakriyaḥ |
उपविश्यासने युञ्ज्यात् योगमात्मविशुद्धये ॥६.१२॥
upaviśyāsane yuñjyāt yogamātmaviśuddhaye ||6.12||
考え・感覚・行動器官を統括する人が、そこで考えを1つに集中する考えを作り
席に着き、心の浄化のために、瞑想を練習しますように
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「瞑想[ヨーガ]を練習しますように[ユンジャート]」
これは、考えを安定させ、きれいにするためです。
アートマーの知識を得ることは、探求[ヴィチャーラ]でしかできず、それにはアートマー・ヴィシュッディが必要です。
知識を妨げてしまう、考えの障害を取り除かれなければなりません。
瞑想[デャーナ]で、考えの障害物を取り除くこと[アンタッ・カラナ・プラティバンダカ・ニヴルッティ]ができます。
述べられたアーサナで座り、瞑想の対象に、考えを1つに絞り、没頭[サマーダーナ]します。
目の前にあるもの[アグラ]、瞑想の対象1つ[エーカ]にだけです。
瞑想をする人が何度も、考え・感覚・行動器官を統制している人[ヤタ・チッタ・インドリヤ・クリヤ]と表現されていますから、この資質をしっかり理解します。
価値構造を構築し、考えや普段外側に向かう感覚を引き下げることです。
この詩の、アートマーは、考え[アンタッ・カラナ]のことで、サット・チット・アーナンダ・アートマーではありません。
サット・チット・アーナンダ・アートマーは、既にヴィシュッダ、質から自由ですから綺麗にする必要など無いからです。
シュッディとは、ラーガ・ドヴェーシャの束縛から自由になることです。
池は、静かできれいではありますが、よく見ると、急にブクブクと何かが上がってくるのを見ます。
水の中で腐敗した有機物からガスが発生し、泡を出すのです。
泡が上がってくるのは、下に何かがあるからです。
熟考中に、予期せずに湧き起こる古い記憶[カシャーヤ]のようです。
古い記憶を整理する側面のヴィシュッディもあり、考えは瞑想によって静かになります。
祈りの瞑想は、質を伴うブランマン[サグナ・ブランマン]に集中し、一方、熟考瞑想は、質のないブランマン[ニルグナ・ブランマン]に集中します。
瞑想は、祈りの瞑想から始まり、熟考の瞑想で終わるので、その両方を含みます。