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ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章14番目の詩


पशान्तात्मा विगतभीर्ब्रह्मचारिव्रते स्थितः ।
paśāntātmā vigatabhīrbrahmacārivrate sthitaḥ |

मनः संयम्य मच्चित्तो युक्त आसीत मत्परः ॥६.१४॥
manaḥ saṃyamya maccitto yukta āsīta matparaḥ ||6.14||

考えが静かで、恐れがなく、ブラフマチャーリーの生活に専心した 状態を確立したヨーギー(瞑想する人)が、考えを統括し私を思って座りますように。 究極のゴールである私を心に抱いて座りますように。
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13番目の詩で述べられた外側の姿勢を整えることは、瞑想を円滑に進めるための土台となります。

ギーターの中で、「瞑想とは何か?」についての詩は少ないのですが、「瞑想する人に関して」は多く語られます。

瞑想する人がどの様な人であるかが、瞑想が成功する要因です。

カルマ・ヨーガを通じてラーガ・ドヴェーシャを克服し、考えが平静になること[praśānta-ātmā]です。

◎行い手の解消が、本当の解決

恐れは様々ですが、瞑想する人にとって、死への恐怖は最も共通する恐れです。

瞑想中、体がリラックスすると眠ってしまい、恐れる人がいなくなるので、恐怖はありません。

しかし、熟睡ではなく、体がリラックスしている時、「体から出て行くような感覚」がまれにあり、それを正しく理解していないと、死の恐怖を感じる人がいます。

肉体的リラックスが、まるで、この体から自分が抜け出る様に感じるので、内側の防御システムが警告を出し、恐怖を経験します。

私達は、体はいずれ手放すことを知っていても、体を手放すことへの恐怖がありますが、ここでの話題は、行い手の解消です。

主体、瞑想者が解消しますから、一種の自殺の様で、自分を消散させたくないので恐れるわけですが、実際は消えて無くなったりしません。

ただ無知が解決するのです。

アートマーは、アハンカーラではないのです。

熟考中、瞑想する人[ahaṅkāra]は、自然にアートマーに解消しています。

◎不安の種

瞑想の成功は、瞑想者が瞑想の対象に溶け込み、解消することです。

瞑想する人も、対象も、そのプロセスもすべては「アートマー」という唯一の真実の中にあります。

瞑想者がアートマーに解消される際、アハンカーラは自らが破壊されるように感じるため恐怖を抱きます。

しかし、実際にはアハンカーラを維持し続けることこそが恐怖の源泉です。

この恐怖は無知や探求不足[a-vicāra]から生じる錯覚に過ぎません。

正しく探求する人は、このプロセスが「消滅」ではなく「真実への解決」であることを理解しているため、恐れから自由[vigata-bhī]です。

◎明日への恐れ

多くの人が「悟りや瞑想によってエゴが破壊される」と聞くと、日常生活が送れなくなるのではないかという不安を抱きます。

しかし、ここでの「エゴの破壊」とは、物理的な消滅ではなく、「エゴとの誤った同一視」からの自由を意味します。

恐れから自由な人[vigata-bhī]は、将来への不安や、悟った後の自分の振る舞いに対する心配から解放されています。

悟った後も、家事や仕事をするための機能としての「私観念」は残りますが、それが「自分自身」ではないと理解しています。

悟りを得た人のエゴは「影」のようなもの(まとわりつく特徴)であり、その人を支配しません。

一方で、自分を「考え」の状態と同一視している人は、一喜一憂するサムサーラに留まり続けます。

◎ブランマチャーリーの生き方

ブランマチャーリーの生き方とは、単なる禁欲ではなく、師への献身[guru-śuśrūṣā]や、与えられたもので満足する、足るを知る姿勢[bhikṣānna-bhuktyādi]を指します。

これにより、明日への不安から自由になります。

ここでのブランマチャーリーは、シュラヴァナとマナナを積み重ねてきた人です。

正しい知識があるからこそ、瞑想が深まります。

湧き上がる雑念、思考を引き下げる[manaḥ saṃyamya]ためには、「私を思って座りますように[maccitta]」とクリシュナは言いました。

◎個人と神との同一性

私に考えを向けた人[maccitta]」が向けるべき「私」とは、パラメーシュワラを指します。

パラメーシュワラには2つの意味があります。

  1. ジャガット・カーラナ: 世界の創造の源としての神
  2. パラマートマー: あらゆる存在の本質

「私はジーヴァである」と思っている自己が、パラメーシュワラと同じですから、パラマートマーという言葉が使われます。

この2つは異なっているように見えるとしても、実際には、何の違いもありません。

◎2種類のヴァーキャが必要である

ジーヴァとイーシュワラが等しいという教え[upadeśa]を理解するためには、2種類の聖典の言葉が必要です。

  1. 本質を明かす文[vastu-svarūpa-para-vākya]

    • アートマーの本質が「サット・チット・アーナンダ」であることを教えます。これは波と海の例えで言えば、どちらも「水」であるという共通の本質を教えることにあたります。

  2. 同一性を明かす文[ekatva-para-vākya]

    • 「あなたはブランマンである[tat tvam asi]」のように、個と神が一つであると述べます。

私の本質が、サッチダーナンダでなければ、この等式は完全に無効になりますから、両方のヴァーキャが大事なのです。

同一性を明かす文[ekatva-para-vākya]は、本質を明かす文[vastu-svarūpa-para-vākya]があってこそ、理解され得ます。

そうでなければ、等しいことを示すヴァーキャは無意味になってしまうでしょう。

ジーヴァはジーヴァで、イーシュワラはイーシュワラになってしまいます。

「波が海である」と言う時、水そのものが理解されなければならず、水を理解してはじめて、「波と海が同じ」と言うヴァーキャが意味を持ちます。

「私が波」と思っている波に向かって、「君は海だよ」と言う時、サッテャが水であるという知識を波が持っていない限り、その言葉は理解されません。

見た目、媒体[upādhi]が違うので、1つは「波」と呼ばれ、もう1つは「海」と呼ばれます。

実際、「波」とか「他のもの」など全くなく、あるのはただ1つ、水なのです。

だから、それぞれ両方のヴァーキャが、共に役割を果たしているのです。

◎神、イーシュワラとしてのクリシュナ

クリシュナは、神[parameśvara]の意味で、一人称単数「私[aham]」という言葉を使います。

歴史上のクリシュナが、神かどうかが、重要なのではありません。

クリシュナが、イーシュワラとして話しているので、私達は、神であるクリシュナについて話しています。

クリシュナという言葉もそれだけで、パラメーシュワラを指していて、クリシュナが、一人称単数[aham]を使う時は、いつもパラメーシュワラであると理解します。

ダンスを踊り、フルートを奏でたクリシュナという人が本当にいたのか?

これが重要なのではなく、こうした話は、全て、アヴァターラとしてヤムナー川のほとりを歩く歴史上の人物を、親しみを持てるよう考慮されたお話です。

賢者なら誰でも、アハムという言葉を同じように使います。

「私は、マヌであった。」「私は太陽神である。」「私は全てである。」

シャーストラの中に、実際この様な言葉があり、賢者ならこの様に言えます。

過去、現在、未来も全て、たった一人の人[puruṣa]、つまり私だけで、このプルシャから何1つ離れていません。

プルシャを自分自身と知る人、「私はあれです[so'ham]」と知る人は、死すべき運命から完全に自由で、その人がアートマー。

唯一のプルシャがいて、それこそがアートマーです。

プルシャはどこかの場所に限らず、全てに遍在し、それは知性[buddhi]で認識します。

「私の心の中にあるものこそアートマー」とは、クリシュナだけではなく、誰もが言うことができます。

クリシュナは、自分自身を世界の源の意味として際立たせるのか、純粋なパラマートマーに重きを置くかのどちらかですが、どちらの場合も、同じ1つのものというのが重要なことです。

パラメーシュワラという言葉は、ここでは神[īśvara]を意味するサグナ・ブランマとしてみなすこともできます。

それは創造者[sṛṣṭikartā]であり、創造物を維持する者[sthitikartā]であり、創造物を解消する人[layakartā]です。

この様に、パラメーシュワラはカルターで、3つの役割を同時に行い、3つの行い全てが、同時に進行し続けます。

この瞬間も物が生まれ、それが生まれる時、それは在り、それが在る時、それは去ります。

3つは同時に起こり、始まりも、終わりもありません。

時間そのものが実体がないもの[mithyā]ミッテャーで、全創造物は時間の中にあるのでミッテャーと呼ばれます。

この今の瞬間、この100万分の1秒、1兆分の1秒は、生まれて、生まれる時消えて、消えて生まれます。

つまり、生まれることがありません。

全てのものが時間の中にあり、それらはミッテャーなのです。

◎パラメーシュワラに瞑想すること

瞑想において考えを向けるべき「私[mat]」には、2つの側面があります。

  • サグナ・ブランマ・デャーナ

    • 神を、慈悲や慈愛、あるいは世界の創造・維持・破壊を司る「手品師[māyāvī]」のような偉大な存在として瞑想します。また、「パラメーシュワラーヤ ナマハ」というシンプルな祈りの形も含まれます。

  • ニルグナ・ブランマ・デャーナ

    • 「純粋な意識[caitanya-ātmā]」、聖典が明かす「satyaṃ jñānamanantaṃ brahma」といった言葉の意味を深く熟考します。

◎瞑想は、技術ではない

瞑想を、血圧を下げたり世俗的な成功を収めたりするための「単なる技術」として利用するのは、瞑想の本来の意味を理解していません。

マット・チッタという複合語の「マット」は、全ての源、パラム・ブランマです。

「satyaṃ jñānamanantaṃ brahma」つまり私です。

私の本質、つまり、純粋な意識に瞑想する人をマット・チッタと呼びます。

私の本質を明らかにする言葉があり、その言葉を使い、意味を深く考え、熟考することを瞑想と呼びます。

瞑想する対象を描写した別の言葉が、マット・パラです。

人は、精神的な成功の為、物質的な成功の為にと、様々な理由で瞑想をしますが、これはイーシュワラなどなく、瞑想を正しく理解していません。

瞑想はテクニックではなく、生き方です。

◎究極のゴール

クリシュナが、瞑想する人をマット・パラと表現したのは、パラメーシュワラ、パラマートマー以外に得るべきものなど何もないということです。

達成すべきものは、パラマートマー、それがマット・パラです。

特定の誰かを思うのではなく、究極のゴールとして、神[īśvara]に没頭します。

パラマートマーは、究極のゴール[para]として、パラマ・パダと呼ばれます。

これを唯一の追求として持つ人は、マット・パラと呼ばれるのです。

そして、「究極のゴール」は、「最終的に、それにたどり着くのであって、今は求める別のゴールがあります」という意味でも、定年退職後に得るべき目的でもありません。

究極のゴールとは、第一優先の目的で、他の全てのゴールは、この究極のゴールにの為に役に立つものとなるのです。

食べることでさえ、この目的を達成する為だけにしますし、サンスクリット語の学習も学者になるためではなく、目的を達成するためです。

ヴェーダーンタを理解する手段として学ぶのです。

また、イーシュワラという源を防衛するとか、イーシュワラを伝え広めたいという、自称擁護者もいますが、イーシュワラはどんな助けも必要としません。

イーシュワラの定義は、いつも統治し、そうする事がで自然な在り方で、統治上手、防衛してもらいたいなどとイーシュワラは思ってません。

取り組むべきことは、ただイーシュワラとは何かを理解することです。

イーシュワラが、瞑想する人[dhyāna-yogī]の唯一のゴール、その人の考えは、私の中に消えてしまいます。

その人が「マット・チッタ」と、クリシュナは神として述べます。

唯一、イーシュワラが、達成されるべきゴールです。

マット・チッタとマット・パラという言葉は、「知りたいことは何か」の識別が出来ている人を示しています。