यत्रोपरमते चित्तं निरुद्धं योगसेवया ।
yatroparamate cittaṃ niruddhaṃ yogasevayā |
यत्र चैवात्मनात्मानं पश्यन्नात्मनि तुष्यति ॥६.२०॥
yatra caivātmanātmānaṃ paśyannātmani tuṣyati ||6.20||
瞑想の実践によって制御された心が(アートマーに)とどまり
自分自身のみにより、自分自身を見て、自分自身に喜ぶとき...
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この詩のアートマーは、サット・チット・アーナンダ・アートマーを指し、自分自身をブランマンと認識していることを意味します。
考えによって[アートマナー]、つまりヴルッティで、自分自身をブランマンと認識し、自分自身の中に喜びます[アートマニ トゥッシャティ]。
この詩では、アートマーに3つの格の語尾が使われています。
第2格は、目的格「自分自身を[アートマーナム]」
第3格は、具格「自分自身によって[アートマナー]」
第7格は、所格「自分自身の中に[アートマニ]」
ヨーギーである、自分自身[アートマー]が、第1格の主格で、喜びの行い手です。
自分自身によって、自分自身を見て、自分自身の中に喜びます[アートマーナー アートマーナム パッシャン アートマニ トゥッシャティ]。
アートマーの本質は、足りていないという感覚から自由ですから[アーナンダ]、その人は、アートマーの中に喜びます。
सुखमात्यन्तिकं यत्तद् बुद्धिग्राह्यमतीन्द्रियम् ।
sukhamātyantikaṃ yattad buddhigrāhyamatīndriyam |
वेत्ति यत्र न चैवायं स्थितश्चलति तत्त्वतः ॥६.२१॥
vetti yatra na caivāyaṃ sthitaścalati tattvataḥ ||6.21||
そして、知性によって知られ、感覚認識を超えたこの絶対的な喜びを認識し
そこに根ざしているため、自分自身の真実から決して離れません
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対象物を認識する思考[ヴルッティ]と、そのヴルッティの対象物は同じもの、つまり、対象物を認識するために、ヴルッティの中に対象物があります。
器[ガタ]を認識する時、ヴルッティがガタの形を装い、それは、ガタ・ヴルッティと呼ばれます。
ガタ・ヴルッティによってのみ、器[ガタ]という対象物を認識します。
アートマーを理解するにも、ヴルッティがなければなりません。
このヴルッティは、シャーストラによって作られ、自己の無知を破壊します。
このヴルッティは、ニディッデャーサナの中で、熟考する人によって思い返されます。
自己の本質の認識において、ヴルッティは、それを客体化せず、まさにアートマーのスヴァルーパを装います。
これは、ポットの様な物を知ることとは異なります。
アートマーの本質の認識には、たった1つの働きがあり、ポットを客体化する場合は、2つの働きがあります。
1つ目の働きは、ヴルッティがポットの形を装う働きで、2つ目の働きは、そのヴルッティの認識であり、それによって、ポットを認識します。
1つは、(ヴルッティによって)対象物を客体化することで、もう1つは、そのヴルッティの認識です。
客体化しているヴルッティは、また別のヴルッティによって認識されます。
それは見る人[ドラシュター]です。
私が、ポットを見る人、知る人です。
この私・観念[アハム ヴルッティ]が、知る人の立場を装い、それが、ガタ・ヴルッティを通し、対象物を認識し、「This is a pot. アヤム ガタハ」と言います。
どんな知識も、知る人、私と、知る人に捉えられる対象物の間には、こうした特殊な関係[アートマ・アナートマ・サムバンダ]があり、これら2つの働きによって起こります。
対象物は、ヴルッティで捉えられ、私はそのヴルッティを認識しますから「This is a pot」と言えますが、「This is ātmā 」とは言えません。
他の対象物と同様に、アナートマーになってしまいます。
当然ながら、クリシュナが20番目の詩で「アートマーを見ること」と言った時、対象物を見る時の様な2つ目の働きは全くなく、唯一の働きしかありません。
アートマーを捉える、まさにアートマーの形を装うヴルッティです。
私が、純粋な意識[ケーヴァラ・チャイタンニャ、シュッダー・チャイタンニャ]であり、その事実の認識が起こる時、その認識は、ヴルッティがまさに意識の形を装っていることを表し、他のものは関わってはいません。
この特殊な形は、アートマーのスヴァルーパに関しての無知を破壊し、消えます。
自分自身についての混乱、つまり、そこにあった自分自身についての無知が、ヴルッティによって破壊されます。
これが、自分自身の知識において、つまり、自分自身とは何かを知ることにおいて起こることです。
一般的に人は、何か喜べるものがある時にだけ喜び、喜びが起こる為には、何かしら嬉しい状況があります。
しかし、この詩で扱われている人にとって、喜ぶために何も必要なく、自分自身の本質である絶対的な幸せの認識なのです。
それは、五感を越えたものであっても、知性による認識です[スカム アーテャンティカム ヤッタド ブッディ・グラーヒャム アティーンドリヤム]。
絶対的な幸せ[アーテャンティカ・スカ]とは、自分自身の本質である幸[スヴァルーパ・スカ]です。
特別なヴルッティであることには疑いはありませんが、ヴルッティには関係なく(分けるものではなく)、自分の外の特別な状況から生まれるものではありません。
自分自身を見るとは、自分自身をスカ・スヴァルーパとして認識することで、その人の本質は絶対的な幸せ[アーテャンティカ・スカ]なのです。
そして、この認識は知性[ブッディ]においてのみ起こり、同時に感覚を越えたもの[アティーンドリヤ]です。
このアーテャンティカ・スカとも言われるアートマ・スカは、感覚の対象や、状況のために感じる喜び[ヴィシャヤ・スカ]とは全く異なります。
アートマ・スカも、ヴィシャヤ・スカも両方、ブッディによって認識されます。
例えば、何か心地良いものを聞いて生まれるスカは、いつも内側であり、外側にはありません。
問題や謎を解いた時の認識や、断片的な知識から生まれるもの、「やった!」と言わせるような種類の幸せは、ヴィッデャー・スカと呼ばれ、明瞭さがあり、サットヴァの質を増やします。
この高められたサットヴァは、より整理され落ち着いた考え[シャーンタ・アンタハ・カラナ]をもたらします。
知識とサットヴァが出会うと、スカがあり、この様なスカをヴィッデャー・スカと呼びます。
様々な程度やレベルのある、物への欲望や体験を満たし起こるスカは、ヴィシャヤ・スカと呼び、猫や犬も、この種のスカがありますが、ヴィッデャー・スカは、人間だけにあります。
祈りや瞑想を含む、ヨーガから起こるスカがあり、プラーナーヤーマなども、あるスカをもたらすことができます。
ヴィッデャー・スカと、ヴィシャヤ・スカは、誰でも体験しますが、一方、ヨーガ・スカは、教えに基づいた鍛錬をする人、カルマ・ヨーギー、祈りにあふれた人、帰依者によって体験されます。
その人は成熟しているので、瞑想で座っていても、そこにスカがあり、教えに基づいた鍛錬、健康などが、満足[スカ]をもたらします。
4番目のスカ[トゥリーヤ・スカ]は、自分自身を認識することのスカが、クリシュナがこの詩で述べた絶対的なスカ[アーテャンティカ・スカ]です。
このスカも、知性によって認識され[ブッディ・グラーヒャ]、感覚を超えたもの[アティ・インドリヤ]です。