सुखमात्यन्तिकं यत्तद् बुद्धिग्राह्यमतीन्द्रियम् ।
sukhamātyantikaṃ yattad buddhigrāhyamatīndriyam |
वेत्ति यत्र न चैवायं स्थितश्चलति तत्त्वतः ॥६.२१॥
vetti yatra na caivāyaṃ sthitaścalati tattvataḥ ||6.21||
そして、知性によって知られ、感覚器官を超えたこの絶対的な喜びを認識し
そこに根ざしているため、自分自身の真実から決して離れません
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対象物を認識する思考[ヴルッティ]と、そのヴルッティの対象物は同じもの、つまり、対象物を認識するために、ヴルッティの中に対象物があります。
器[ガタ]を認識する時、ヴルッティがガタの形を装い、それは、ガタ・ヴルッティと呼ばれます。
ガタ・ヴルッティによってのみ、器[ガタ]という対象物を認識します。
アートマーを理解するにも、ヴルッティがなければなりません。
このヴルッティは、シャーストラによって作られ、自己の無知を破壊します。
このヴルッティは、ニディッデャーサナの中で、熟考する人によって思い返されます。
自己の本質の認識において、ヴルッティは、それを客体化せず、まさにアートマーのスヴァルーパを装います。
これは、ポットの様な物を知ることとは異なります。
アートマーの本質の認識には、たった1つの働きがあり、ポットを客体化する場合は、2つの働きがあります。
1つ目の働きは、ヴルッティがポットの形を装う働きで、2つ目の働きは、そのヴルッティの認識であり、それによって、ポットを認識します。
1つは、(ヴルッティによって)対象物を客体化することで、もう1つは、そのヴルッティの認識です。
客体化しているヴルッティは、また別のヴルッティによって認識されます。
それは見る人[ドラシュター]です。
私が、ポットを見る人、知る人です。
この私・観念[アハム ヴルッティ]が、知る人の立場を装い、それが、ガタ・ヴルッティを通し、対象物を認識し、「This is a pot. アヤム ガタハ」と言います。
どんな知識も、知る人、私と、知る人に捉えられる対象物の間には、こうした特殊な関係[アートマ・アナートマ・サムバンダ]があり、これら2つの働きによって起こります。
対象物は、ヴルッティで捉えられ、私はそのヴルッティを認識しますから「This is a pot」と言えますが、「This is ātmā 」とは言えません。
他の対象物と同様に、アナートマーになってしまいます。
当然ながら、クリシュナが20番目の詩で「アートマーを見ること」と言った時、対象物を見る時の様な2つ目の働きは全くなく、唯一の働きしかありません。
アートマーを捉える、まさにアートマーの形を装うヴルッティです。
私が、純粋な意識[ケーヴァラ・チャイタンニャ、シュッダー・チャイタンニャ]であり、その事実の認識が起こる時、その認識は、ヴルッティがまさに意識の形を装っていることを表し、他のものは関わってはいません。
この特殊な形は、アートマーのスヴァルーパに関しての無知を破壊し、消えます。
自分自身についての混乱、つまり、そこにあった自分自身についての無知が、ヴルッティによって破壊されます。
これが、自分自身の知識において、つまり、自分自身とは何かを知ることにおいて起こることです。
一般的に人は、何か喜べるものがある時にだけ喜び、喜びが起こる為には、何かしら嬉しい状況があります。
しかし、この詩で扱われている人にとって、喜ぶために何も必要なく、自分自身の本質である絶対的な幸せの認識なのです。
それは、五感を越えたものであっても、知性による認識です[スカム アーテャンティカム ヤッタド ブッディ・グラーヒャム アティーンドリヤム]。
絶対的な幸せ[アーテャンティカ・スカ]とは、自分自身の本質である幸[スヴァルーパ・スカ]です。
特別なヴルッティであることには疑いはありませんが、ヴルッティには関係なく(分けるものではなく)、自分の外の特別な状況から生まれるものではありません。
自分自身を見るとは、自分自身をスカ・スヴァルーパとして認識することで、その人の本質は絶対的な幸せ[アーテャンティカ・スカ]なのです。
そして、この認識は知性[ブッディ]においてのみ起こり、同時に感覚を越えたもの[アティーンドリヤ]です。
このアーテャンティカ・スカとも言われるアートマ・スカは、感覚の対象や、状況のために感じる喜び[ヴィシャヤ・スカ]とは全く異なります。
アートマ・スカも、ヴィシャヤ・スカも両方、ブッディによって認識されます。
例えば、何か心地良いものを聞いて生まれるスカは、いつも内側であり、外側にはありません。
問題や謎を解いた時の認識や、断片的な知識から生まれるもの、「やった!」と言わせるような種類の幸せは、ヴィッデャー・スカと呼ばれ、明瞭さがあり、サットヴァの質を増やします。
この高められたサットヴァは、より整理され落ち着いた考え[シャーンタ・アンタハ・カラナ]をもたらします。
知識とサットヴァが出会うと、スカがあり、この様なスカをヴィッデャー・スカと呼びます。
様々な程度やレベルのある、物への欲望や体験を満たし起こるスカは、ヴィシャヤ・スカと呼び、猫や犬も、この種のスカがありますが、ヴィッデャー・スカは、人間だけにあります。
祈りや瞑想を含む、ヨーガから起こるスカがあり、プラーナーヤーマなども、あるスカをもたらすことができます。
ヴィッデャー・スカと、ヴィシャヤ・スカは、誰でも体験しますが、一方、ヨーガ・スカは、教えに基づいた鍛錬をする人、カルマ・ヨーギー、祈りにあふれた人、帰依者によって体験されます。
その人は成熟しているので、瞑想で座っていても、そこにスカがあり、教えに基づいた鍛錬、健康などが、満足[スカ]をもたらします。
4番目のスカ[トゥリーヤ・スカ]は、自分自身を認識することのスカが、クリシュナがこの詩で述べた絶対的なスカ[アーテャンティカ・スカ]です。
このスカも、知性によって認識され[ブッディ・グラーヒャ]、感覚を超えたもの[アティ・インドリヤ]です。
クリシュナがこの詩で述べた絶対的なスカ[アーテャンティカ・スカ]です。
このスカも、知性によって認識され[ブッディ・グラーヒャ]、感覚を超えたもの[アティーンドリヤ]です。
ヴィシャヤ・スカ、ヴィッデャー・スカ、ヨーガ・スカも、知性によって認識されますが、感覚を超えたものではありませんが、この絶対的スカは、ブッディ・グラーヒャであり、アティーンドリヤです。
内側や外側の状況に全く影響されません。
ヴィシャヤ・スカは外側の状況から、ヨーガ・スカは内側の状況から生まれますが、絶対的スカは、生まれるものでは無く、自分自身なのです。
人は、このスカが何から生まれ、どの様にもたらされるのかを知りたがりますが、このスカが「生まれる」ものであるという認識は、無知によるものです。
それは、サムサーリー、見極めていない人のアプローチです。
絶対的なスカは、ブッディ・グラーヒャで、同時にアティーンドリヤです。
瞑想する人、探求者が、アートマ・スヴァルーパを認識する時、その人は、真実、アートマーが絶対的幸せであるという真実[アーテャンティカム スカム]から反れたりしません。
この詩のタットヴァとは「~ness」という語尾で表されるように、ものごとの本質[スヴァルーパ]を意味します。
タットヴァは、真実、つまりアートマーのスヴァルーパであり、アーテャンティカ・スカ・スヴァルーパ、つまり、どんな限界からも自由です。
そこから、その人は、決して離れたりしないのです。
アシュターンガ・ヨーガのサマーディとを混同しないようにしなければなりません。
アシュターンガ・ヨーガは鍛錬で、この知識が起こるための考えの準備の役割があります。
アシュターンガ・ヨーガは、素晴らしい鍛錬ですが、それを理解しないと、アシュターンガ・ヨーガのサマーディと、自分自身の知識[アートマ・ニャーナ]の間に混乱します。
自分自身の知識が、究極のゴール、皆が求めている自由です。
アシュターンガ・ヨーガで語られるサマーディは、体験できる最も素晴らしい達成です。
没頭した状態であるニルヴィカルパ・サマーディでは、知る人、知られるもの、知る道具(感覚器官や考え)が、しばらく続く体験の中で1つになります。
サムサーラを取り除きませんが、確実にサムサーラでの最高のものです。
ニルヴィカルパ・サマーディは、熟睡の状態と反対のものです。
熟睡中も、知る人・知られるもの・知識は分かれていませんが、ニルヴィカルパ・サマーディでは考えは起きています。
違いは、考えが寝ている時はヴルッティがなく、ニルヴィカルパ・サマーディでは、考えが起きていて、ヴルッティがあります。
人生での最も素晴らしい体験が、ニルヴィカルパ・サマーディですから、それは人を魅惑します。
しかし、ニルヴィカルパ・サマーディには終わりがあり、過去の体験となります。
ニルヴィカルパ・サマーディを体験するなら、世界が変化するとか、ニルヴィカルパ・サマーディでアートマーを体験するとも言いますが、そこで 起こったことはただ、知る人・知られるもの・知識が1つになるだけです。
それは知性で認識されますし[ブッディ・グラーヒャ]、五感を超えたもの[アティーンドリア]ですが、この体験があ世界観を変えたりしません。
実際、とても悲しくなるかもしれません。
今までは、お金や、権力や、髪の毛や、人間関係、自分自身以外の物を失う悲しみがあったかもしれませんが、今はもっと大きな喪失感、つまり、自分を失うことを体験したのです。
それゆえ、サマーディを体験した人はある悲しみを持つかもしれません。
サマーディがなければ悲しみがあり、サマーディは続くものでは無いので、あったとしても悲しみがあるのです。
言えるのは「1時間半の間だけ永遠でした」ということです。
その間は、日常にはある、知る人、知られるもの、知識の間の区別がどこかに消え、時間もありません。
時間からも自由で、私は永遠でしたが、1時間半後、永遠ではなくなりました。
サマーディを2日間体験したからといって永遠になれたりしません。
この点では、それは、2日間意識不明で、その後意識が回復したことと何ら違いはないのです。
意識不明の間は、分かれてなく、その人も、何が起こっているのかも分かりませんから、ニルヴィカルパ・サマーディの中にいる時間の長さは、何の意味もないのです。
しかし、鍛錬としては、その体験に至るまでに、確固たる統制力を持ちますから、ニルヴィカルパ・サマーディは素晴らしいもの、人が得られる体験の極地とみなされているのです。
その人は、一定のサーットヴィカ・ヴルッティを持っていると言うことは構いませんが、ニルヴィカルパ・サマーディから出てきた後、世界が全く違ったように見えと言うことは、正しくありません。
どの様に世界を見るかは、純粋にリアリティを私がどう見るかなのです。
ニルヴィカルパ・サマーディという体験を解釈するためには、知識の道具[プラマーナ]がなければなりませんし、聖典を使わない限り、この体験を解釈することはできません。
あらゆる解釈は、完全に私の知識に頼っていて、それは私が使えるプラマーナに依存しています。
人が持つプラマーナ(知覚や、推理など)は、全て二元性を保つことで作用します。
二元性とは、行い手[カルター]と、行いの対象[カルマ]と、行いそのもの[クリヤー]と、行う道具[カラナ]などの二元性で、これらは総称してカーラカと呼ばれます。
二元性があることで、その人の様々な知識の道具[プラマーナ]が働きます。
知覚[プラッテャクシャ]や、推理[アヌマーナ]は、それらのカーラカを飲み込めたり(1つになったり)しません。
唯一、ヴェーダーンタの教え[アーガマ]だけが、それらを飲み込みます。
その教えによると、私は、知る人[プラマーター]ではないと言われます。
知る人、知識、そして知識の対象は、同じ1つのものであり、私は、まさにこれら3つのものの本質です。
アーガマは区別を解消するということが、まさにこの詩で言われていることです。
アートマーを知り、アートマーの真実から動かず、知る人・知られるもの・知識の区別が全くありません。
考えも、考えの対象物も私ですから、いつ、自分自身から出たりするのかということも問題にはなりません。
考えがあろうと、無かろうと、私は存在し、自分自身から出ることなどありません。
世界と共にあろうが、なかろうが、それはいつも私です。
この詩の「タットヴァタハ ナ チャラティ」という表現は、知識[ニャーナ]を意味し、そのヨーガという言葉は一般的な意味で捉えられていません。
クリシュナが後に説明するように、ヨーガというより、むしろヴィヨーガです。
以前は無知の為に、悲しみとの関わり[ドゥッカ・サムヨーガ]があり、それを自分自身とすることが問題でした。
ヨーガとは、結ぶこと、関わることを意味し、ヴィヨーガとは、その関わりから離れることを意味します。
以前、その人は、体・考え・感覚の複合体を自分自身とみなしていたので、それは単純な繋がりではありませんでした。
そしてその人は、知識によって自分自身を悲しみから分離しました。
それは、アシュターンガ・ヨーガを意味するものではないのです。
様々な混乱を避けるために、クリシュナはまず、自分自身の真実から離れません[タットヴァタハ ナ チャラティ]と言い、この後の詩で、ヨーガという言葉を定義しました。