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ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章21番目の詩


सुखमात्यन्तिकं यत्तद् बुद्धिग्राह्यमतीन्द्रियम् ।

sukhamātyantikaṃ yattad buddhigrāhyamatīndriyam |

वेत्ति यत्र न चैवायं स्थितश्चलति तत्त्वतः ॥६.२१॥

vetti yatra na caivāyaṃ sthitaścalati tattvataḥ ||6.21||

(そして)感覚器官を超えたものですが、知性によって認識されるこの絶対的な喜びをその人が認識するとき、そして、(それに)根づいて、自身の真実から離れることが決して無いとき、

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対象物の認識には、思考[vṛtti]が、その対象物の形を作り出し、一時的にその形そのものになっていることと、それを「知る人(私)」が認識するという二つのステップが必要です。

しかし、アートマーの認識はこれとは根本的に異なります。

通常、ポットを知る際は「私」が「ポットという考えの枠組み[ghaṭa-vṛtti]」を客体として捉えますが、アートマーを同じように客体化して捉えようとすると、それは自分自身ではなく「自分以外の対象[an-ātmā]」になってしまうからです。

シャーストラによって生じるアートマーのヴルッティは、自分自身を客体化するのではなく、ただ自分自身の無知を払い、まさにアートマーのスヴァルーパを装います。

◎アートマーを見ることと、対象物を見ることとは違う

対象物の認識には「思考が形を装う」「それを知る人が認識する」という2つの働きが必要でしたが、アートマーの認識においては、「無知を払う」という1つの働きだけで完結します。

通常、ポットを知る時は、考えがポットの形を装い、それを「知る人である私」が客体として眺めます。

どんな知識も、知る人と、捉えられる対象物の間には、こうした関係[ātmā-anātmā-sambandha]があり、これら2つの働きによって起こります。

しかし、アートマーの認識では、聖典の言葉によって「私は純粋な意識[śuddha-caitanya]」という特殊なヴルッティが即座に、自分自身の混乱、自分自身の無知を破壊します。

このとき、自分自身を外側から眺める「二つ目の働き(客体化)」は起こりません。

なぜなら、認識される対象[ātmā]と、認識する主体[ātmā]がもともと同じものだからです。

暗闇の中で自分の手を探している時に、パッと明かりがついて「あ、ここにある」と気づくようなもので、その瞬間に「無知」が消え去るという一つのプロセスだけが起こります。

鏡の汚れを拭き取るようなもので、汚れ(無知)さえ取り除けば、そこには自分自身がただあります。

◎賢者は、何に喜ぶのか?

通常、私たちが喜びを感じるためには、美味しいものを食べたり褒められたりといった「外側の嬉しい状況」が必要です。

しかし、ここで語られている喜び[ātyantika-sukha]は、そうした外部の条件に一切依存しません。

この喜びは、自分自身の本質が「絶対的な幸せそのもの[sukha-svarūpa]」であると知ることから生まれます。

それは五感を超え[ati-indriya]、知性[buddhi]によってのみ認識される、揺るぎない満足です。

前の詩で語られた「アートマーを見る」という表現は、この詩では「自分を幸せそのものとして認識する」と言い換えられています。

つまり、特別な何かが起きたから喜ぶのではなく、「自分こそが幸せそのもの」と知ることそのものが、絶対的な喜びなのです。

◎絶対的なスカと、相対的なスカとの違い

人が経験する喜び[sukha]にはいくつかの段階がありますが、クリシュナが説く「ātyantika-sukha」はそれらとは一線を画すものです。

まず、私たちが日常的に経験する喜びは、大きく以下の3つに分類されます。

  • ヴィシャヤ・スカ: 欲望の対象(物や状況)を手に入れることで得られる喜びです。動物も共有する本能的なものですが、対象に依存するため長続きしません。

  • ヴィッデャー・スカ: 何かを理解したり、問題を解決したりした時に得られる「わかった!」という知的な喜びです。サットヴァを高めますが、断片的な知識に基づくため、やはり相対的です。

  • ヨーガ・スカ: 祈りや瞑想、プラーナーヤーマなどの鍛錬を通じて得られる、落ち着いた考えです。これは精神的に成熟した人や帰依者が得ることができる質の高い喜びです。

これら3つはいずれも、外側の状況や特定の体験、あるいは知的な達成といった「何か」に依存しています。

しかし、4つ目のスカ[ātyantika-sukha]は全く別物です。

これは何かの業績や体験から生まれるものではなく、ただ「自分自身の本質を認識すること」から得られます。

何かを得たから幸せなのではなく、「自分自身が幸せそのものである」と知ることで生じる絶対的な喜びです。

これらすべての喜びは知性[buddhi]において認識されますが、この絶対的なスカは五感の刺激を必要としないため、感覚を超越したもの[ati-indriya]と呼ばれます。

◎自分自身であるスカ

絶対的な幸せ[ātyantika-sukha]が、なぜ他の喜びと決定的に違うのか、その核心は、それが「何からも生まれない」という点にあります。

通常、どんなスカもブッディで認識されますが、これまでの3つのスカは、必ず外側や内側という「条件」に依存していす。

しかし、この絶対的なスカは、感覚器官に頼らないだけでなく、何らかの状況によって「作り出される」ものでもありません。

それは、自分自身の本質そのものだからです。

私たちは「どうすればその幸せが手に入るのか」と探しまわりますが、それ自体が「私は足りてない」と見なす無知(サムサーリーの考え方)に基づいています。

ひとたび探求者が、自分の本質が「限りのない満たされた存在[pūrṇa-svarūpa]」だと認識すれば、その真実[tattva]から揺らぐことはありません。

この認識は、何かが手に入ったから喜ぶのではなく、「自分は最初から絶対的な幸せそのもの」という事実に落ち着くことを意味します。

その人はもう、どこにも行く必要がなく、その真実から決して離れることがありません。

◎認識と体験の違い

アシュターンガ・ヨーガのサマーディは、思考が目覚めた状態で自他の区別が消える、人生最高峰の「体験」です。

しかし、それはあくまで無知を残したまま、至る境地であり、一時的なものに過ぎません。

これに対して、真のゴールである自分自身の知識[ātma-jñāna]は、体験の有無を超えた永続的な自由をもたらします。

アシュターンガ・ヨーガは、考えを整える準備として素晴らしい役割を果たしますが、この「体験」と「知識」を混同せず、知識こそが究極の目的であると理解します。

◎体験は、必ず終わる

ニルヴィカルパ・サマーディは、主体と客体の区別が消える素晴らしい体験ですが、外部の音や思考によって容易に中断される一時的な状態に過ぎません。

それは永遠ではなく、日常に戻れば過去の記憶となり、むしろその素晴らしい境地を失ったことが新たな悲しみの原因にさえなり得ます。

言えるのは「90分だけ永遠でした」ということです。

ニルヴィカルパ・サマーディにどれだけ留まれるかという時間の長さに関わらず、体験には必ず終わりがあるという点では「意識不明の状態」と本質的な違いはありません。

◎鍛錬が意味する考えの統括

ニルヴィカルパ・サマーディは、鍛錬としては、その体験に至るまでに、確固たる統制力を持ちますから、素晴らしいもの、人が得られる体験の極地とみなされているのです。

しかし、その体験自体が世界の見方を変えるわけではありません。

体験を正しく解釈するには知識の道具[pramāṇa]が必要ですが、知覚[pratyakṣa]や推理[anumāna]は二元性の枠組みでしか機能しません。

唯一、ヴェーダーンタの教え[āgama]だけが、「知る者」と「知られる対象」の区別を解消し、思考も対象もすべてがアートマーであるという真実を示します。

この知識に留まることこそが、体験の有無に左右されない真の目覚めです。

◎思考とはあなた

考えの有無や世界の存在に関わらず、私は常に アートマーとして存在し続けており、自分自身から離れることはありません。

この詩が示す 「自分自身の真実から離れませんtattvataḥ na calati]」は、真実の知識[jñāna]を意味します。

ここでのヨーガは、一般的な「結びつき」ではなく、むしろ悲しみとの関わりを断つこと[viyoga]です。

かつて無知によって身体や思考と自分を同一視していた状態から、知識によってそれらを自分から切り離すことで、これは アシュタンガヨーガとは異なるものです。