
यं लब्ध्वा चापरं लाभं मन्यते नाधिकं ततः ।
yaṃ labdhvā cāparaṃ lābhaṃ manyate nādhikaṃ tataḥ |
यस्मिन् स्थितो न दुःखेन गुरुणापि विचाल्यते ॥६.२२॥
yasmin sthito na duḥkhena guruṇāpi vicālyate ||6.22||
そして、それを得ると、それ以上の素晴らしい得るものなど考えつきません。それを達成すると、大きな悲しみにさえ影響されたりしません。
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アートマーの探究において、一度その本質を理解したならば、そこから離れたり忘れたりすることはありません。
波が、水から出入りしない様に、アートマーは場所のように出入りできる対象ではなく、また記憶に依存して保持する知識でもありません。
言葉そのものは本質を指し示す道具にすぎないため、たとえ教えに使われた言葉を忘れたとしても、一度理解された「自分自身という存在の意味」は、事故で記憶を失ったとしても、揺らぐことなどありません。
◎記憶を失うと、知識に影響はあるのか?
事故などで記憶を失ったとしても、自分がブランマンであるという真実は、個人の所有物ではないため、一度得られたモークシャが失われることはありません。
また、アートマーを知ることは、単なる新たな冒険や、知識のコレクションを増やすことではなく、それ以上に価値のあるものなどありません。
アートマーを「得る」とは、対象を手にすることではなく、自分自身が幸せそのものであると深く理解することであり、それを理解した人は、もはや他に探し求めるものなどありません。
◎自分自身の知識よりも、素晴らしいものはあるか?
通常、人は自分の価値を証明し続けるために、次々と新しい冒険や挑戦を求めますが、それはベースに自己証明したいという願望があるからです。
しかし、アートマーは、それ自身が完全[pūrṇa]で、何かに頼ることなく幸せであるため、一度これを得た人は、もはや他により良いものを探す必要がなくなります。
この幸せは、外側の状況や気分の変化に左右される一般的な快楽とは異なり、知性によって認識される「感覚を超えた絶対的なもの」です。
そのため、人生においてどれほど大きな悲劇に見舞われたとしても[duḥkhena guruṇa api]、その理解が揺らぐことはありません[na vicālyate]。
「大きい」「重たい」という言葉が「グル[guru]で、「簡単な」「軽い[laghu]」と反対の意味で使われます。
ここで述べられるヨーガは「繋がる」よりむしろ「離れる」というヨーガ[viyoga]です。
20番の詩のヨーガは、熟考を練習することと言われ、その熟考の対象物アートマーを知り、その人は、自分自身の中に喜びます。
アートマーは、知識の助けを得た考えによって知られるので、このヨーガは「ニャーナ・ヨーガ」です。
◎求めている全ての事の解決
人が新しい挑戦を求め続けるのは、自己に対する混乱や欠乏感があるからですが、アートマーを得ることは、そうした「探し求めること」そのものが解消されることを意味します。
ここでは探求者と探求の対象が一体となるため、もはや自己証明するための外的な冒険は必要なくなります。
この満ち足りた状態は、悲劇や環境の変化によって邪魔されることはありません。
なぜなら、その「満ち足りたもの」こそが自分自身であり、どこかへ出かけたり戻ったりするような性質のものではないからです。
世界も、他のどんなものも、「満ち足りたもの」を邪魔することは出来ず、人生の中で起こるあらゆる出来事を、「満ち足りたもの」が受け入れています。
また、その「満ち足りたもの」は、その人自身なので、そこから抜け出せる様なものでもありません。
