यो मां पश्यति सर्वत्र सर्वं च मयि पश्यति ।
yo māṃ paśyati sarvatra sarvaṃ ca mayi paśyati |
तस्याहं न प्रणश्यामि स च मे न प्रणश्यति ॥६.३०॥
tasyāhaṃ na praṇaśyāmi sa ca me na praṇaśyati ||6.30||
私を全ての物の中に見る人、そして、私の中に全ての物があるのを見る人、
その私は、離れた別の人ではないし、その人も私から離れた別の人ではありません
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この詩で「至るところに私を見る人[yaḥ māṃ paśyati sarvatra]」と、第1人称で言われました。
この「私」は、クリシュナという名前の人物ではなく、29番の「全ての存在の中に宿る自分自身」が、「私を[māṃ]」に置き換えられ、神と個人に違いがないと明かします。
私を、全ての中に見る人、つまり、全ての存在の基盤[adhiṣṭhāna]として見る人は、自分自身をパラマートマーとして、アートマーから離れていないものとして理解します。
また、全ての物が、まさに私の中にある[sarvaṃ ca mayi eva]と言われました。
私は、全ての物の源[kāraṇa]で、全ての物の基盤[adhiṣṭhāna]です。
自分自身が全ての物の中にあり、まさに自分自身の中に全ての物があると認識します。
全ての中に自分自身を見て、自分自身の中に全てを見る人は、全ての中に、「私[イーシュワラ]」を認識し、「私」の中に、全てを認識します。
全ての物の基盤で、全ての物がその「ある」、つまり存在を私の中に持ちます。
◎イーシュワラは、分かれたものでありえるか?
神と個人との間に違いはありませんし、他に、別のイーシュワラがあるのでもありません。
イーシュワラが全てですから、イーシュワラが意識と分かれていることもあり得ません。
もし分かれているなら、神は単にもう1人の別の人ですし、ジーヴァとイーシュワラの間の違いが解決することは決してありません。
「神はあらゆるところにあり、私は神のかけらである」などという議論は、サッテャム・ミッテャーのヴィジョンがあるのかを分析しなければなりません。
分析すれば、唯一の存在[サッテャ]を見つけ、このサッテャの本当の姿が、意識[パラム ブランマ]である自分自身に他ならないことが分かります。
聖典がイーシュワラについて語る時は、ある特別な視点です。
「ある」は、ただパラメーシュワラだけで、ジーヴァもある視点から見たものにすぎません。
個人と神は分かれている、というウパーディの視点からは、ジーヴァとイーシュワラがあります。
本質[パラマートマー]、つまり、サッテャ・ヴァストゥの理解があり、これら2つが解消します。
神が「私は神です[アハム イーシュワラハ]」
個人が「私は個人です[アハムジーヴァハ]」
と言う時、「I am[アハム]」は、共通し、違いは、完全にサッテャに頼っているミッテャーです。
ミッテャーは、サッテャと別のものではなく、問題は、その違いです。
ジャガット全体は、サッテャ・ヴァストゥにその存在を頼っているミッテャー。
そして、そのサッテャ・ヴァストゥは、「私[アハン]」、として表現されるものですから、蚊も含め、「私」と言う人は誰でも、パラム ブランマです。
私と、パラム・ブランマではなく、私が唯一のパラム・ブランマです。
知らない人でさえ、パラム・ブランマです。
「タット トヴァム アシ」は、私が、まさに今もパラム・ブランマであることを意味し、後に私が「なる」ようなものではありません。
「それはあなたです[タット トヴァム アシ]」と、シュルティは言うのです。
それは、29番目の詩で明かされ、この詩でも述べられます。
全ての生き物の中に私を見る人[ヤハ マーム パッシャティ サルヴァットラ]
そして、私の中に全ての生き物を見る人[サルヴァム チャ マイ パッシャティ]
その人は、アートマーしかないという世界観を見ます。
◎その世界観の結果
クリシュナが、イーシュワラとして話をしていることを第1人称が示します。
イーシュワラはアートマーなので、「私は、その人から離れていません[タッスャ アハム ナ プラナッシャーミ]」と言います。
どこかに座り、間接的に祈られる対象物ではありません。
イーシュワラが、自分自身[アートマー]なので、別の誰かではないし、私から離れていません[サ チャ メー ナ プラナッシャティ]。
既にあったこの事実を知らず、今、知ります。
神のお陰でも、偶然でもなく、今も昔も真実です。
「全ての生き物の中に自分自身を見て、自分自身の中に全ての生き物を見る」
このヴィジョンを持つ人は、私から決して離れません。
つまり、私とその人の距離はゼロです。
遠いものではないし、その人が私から遠くなったりもしません。
以前は、イーシュワラ(パラマートマー)は、何か追い求めるものでした。
イーシュワラに恩恵を求め、全ての祈りや儀式を終え「ジーヴァとイーシュワラの間に違いはない」というヴィジョンを得て、全てが解消されます。
これが、「私は、その人から離れていません[タッスャ アハム ナ プラナッシャーミ]」という意味です。
神は、まるでヴェールに包まれているように表現されますが、神はヴェールに覆われたりしていないと、クリシュナはこの詩で言います。
無知だけが、唯一のヴェールで、そのヴェールは取り除かれました。
あるのはひとつの世界観、全体の世界観[パラ・アートマー]です。
全てのものが、この唯一のアートマーだけに解消します。
◎私が全てである
अर्धश्लोकेन प्रवक्ष्यामि यदुक्तं ग्रंथ कोटिभिः।
ब्रह्म सत्यं जगन्मिथ्या जीवो ब्रह्मैव नाऽपरः।।
何百万という言葉や聖典で述べられたことを、私はこの詩、半分で言いましょう。
ブランマンはサッテャ、全世界はミッテャー、ジーヴァはブランマンと分かれていません。
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シャンカラは、どこかで上記の様に述べました。
これは、体・考え・感覚もミッテャーで、私は全てである[イダム サルヴァム アハム アスミ]を意味します。
これが、ジーヴァとイーシュワラの違いを解消する見方です。
イーシュワラは、決して私から離れた別の物ではなく、私も決してイーシュワラから離れた別の物ではありません。
無知が取り除かれなら、「在る」はただ意識の輝き、既知も未知も、全てがアートマーの中に存在します。
イーシュワラのアートマーと、ジーヴァのアートマーの本質は、同じ1つのアートマー、意識です。
意識こそが、ただ自立して存在し、それは全体[イーシュワラ]であり、ジーヴァです。