千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

ヨガ 勉強会  個人レッスン・出張ヨガ 私について ブログ アクセス スケジュール・予約 お問い合わせ

CHATER4 第3章の概要

第3章は、アルジュナの次の質問で始まりました。

アルジュナは言いました。
「ジャナールダナよ。あなたが、知識が行いよりも勝っていると主張するのであれば、なぜ、私に恐ろしい行いをさせようとするのでしょうか? ケーシャヴァよ[3-1]」

「矛盾しているかのように思える言葉で、まるで、あなたは私の考えを困惑させているかのように思えます。どちらがいいのか決めた上で、自由を得るための、ひとつのことを私に教えて下さい[3-2]」

クリシュナは、全ての願望を手放されなければならない、などとは言ってません。

「安心や幸せになるための願望は、賢者にはない」という意味で、願望を手放すと言いいました。

「願望を満たすことで、より安心」という幻想が、賢者には、もはやないということです。

アルジュナは、全ての行いは願望から起こると知っていたので、願望を手放されねばならないなら、なぜ私は行いをすべきなのだろう?

そして、どうやって知識を得るべきなのであろう?

行いの動機である願望と共に、全ての行いを手放せば、知識を求める事が唯一の方法ではないか?と考えたのです。

クリシュナは、カルマ・ヨーガを求め、起き上がって戦えと言ったので、アルジュナは混乱しました。

「知識がシュレーヤスを与えるなら、必要な事は、全てを手放し、先生のもとで知識を得ることだけだから、解決策はサンニャーサである。」というのがアルジュナの考えでした。

まるで矛盾しているように思えることを解決しようと、シュレーヤスを与える事を1つだけ、ずばり言ってほしいとアルジュナは頼み、それに答えてクリシュナが話しました。

「罪のない者よ。最初に私によって語られましたが、この世には、2つの側面からの専心するライフスタイルがあります。サンニャーシーにとっての、知識の追求[ニャーナヨーガ]と、行いを追求する者にとっての、行いを道具とした追求[カルマ・ヨーガ]です[3-3]」

サンニャーサは、1つの生き方ではありますが、真のカルマ・サンニャーサは、知識によって全ての行いを手放すことです。

生き方としてのサンニャーサと、知識を通して行いを手放すこと[サルヴァ・カルマ・サンニャーサ]の違いをはっきりさせるために、クリシュナは、その人がサンニャーシーであろうとそうでなかろうと、誰も何一つ行いをせずにはいられないことを思い出させました。

「実際、一瞬でさえ、行いをすることなくいれる人は、誰もいません。なぜなら、プラクルティ
から生まれた(サットヴァ、ラジャス、タマスという3つの)グナ によって、私たちは皆、抵抗もできず行いをさせられているのです[3-5]」

サンニャーシーは、前半のヴェーダが申し付ける義務を手放し、社会において競争をしないと誓いをたて、この知識を探究します。

クリシュナは、この探求に献身した生き方[サンニャーサ]を認めていましたが、それは簡単なことではないと注意を促しました。

サンニャーシーとカルマ・ヨーギーの両方が、真のサンニャーサ[サルヴァ・カルマ・サンニャーサ]を成し遂げる手段だと解説しました。

サンニャーサの人生は、成熟した考えと、熟考する資質を持つことを必要とします。

例えば、家長としてカルマ・ヨーガの人生を生きたとて、サンニャーサ以外の、どのステージにいる探究者[ムムクシュ]は何も失いませんし、実際、この資質を得ることができます。

探究されねばならないものは知識ですから、カルマ・ヨーギーも同じゴールを得ます。

これが、アルジュナに理解してほしい事でした。

行いの結果を与える人[カルマ・パラ・ダーター]であるイーシュワラに関する適切な考え方がなければ、人はカルマ・ヨーギーにならないことを第2章で見ました。

この考え方があるなら、私は、全ての行いの結果をプラサーダとして受け取ります。

また、私が行う全ての行いが、神への捧げもの[ヤッニャ]です。

第3章で、この考え方が再び強調され、議論されました。

「これ[ヤッニャ]によって、あなた方が、神々をなだめ安らげなさい。それらの神々が、あなた方をなだめ安らげますように。お互いになだめ安らげあい、あなた達が、最も価値あるもの[モークシャ]を得ますように[3-11]」

「ヤッニャによってなだめ安らげられた神々は、あなたに望みの物を与えてくれるでしょう。ですから、彼らに捧げることなく、彼らによって与えられたものを楽しむ人は、まさに、泥棒なのです[3-12]」

「まず神に食事を捧げてから食べる人は、不純さから解放されます。一方、自分たちのためだけに料理をする人々は罪深い人々で、パーパ(罪)を食べます[3-13]」

カルマ・ヨーガの考え方、すなわち行いが、祈りや捧げものとして為された時、ラーガ・ドヴェーシャの支配下から、個人をどの様に自由にするかを、詳しくクリシュナは解説しました。

「賢者ですら、その生まれ持った性質に合わせて行いをします。全ての物はそれぞれの生まれ持った性質に従いますから、制御することが何の役に立つでしょう?[3-33]」

皆、その人自身のプラクルティに従い考えますから、好き嫌いは、避けようがなく、それはただ起こります。

全思考が、考えにポップアップすることに対して、私は何も言えません。

それらは、総体的に自分自身の持つ性質[プラクルティ]に等しいものです。

私が、過去の無数の人生でしたこと[プラーラッブダ・カルマ]や、またこの人生で、私がしたこと[ダルマ・アダルマ・プンニャ・パーパ・サムスカーラ]が、私の考えに何らかの思考を形成するので、それを止める方法はありません。

例え、イーシュワラとて、それを止める事はできません。

誰かが、私の思考をコントロールしたとて、人生を通して、ダブルスタンダードが続きます。

自分自身の思考をコントロールできないなら、「思考が問題だ」という結論を問うのです。

思考は常にありますから、思考が問題だという結論の人は、終わる事のない悪夢が続きます。

熟睡中だけそれを忘れられるので、その時間だけ救われるのです。

実際、思考自体は問題はないと言うなら、疑問を持つかもしれません。

もし、自分の思考をコントロールできないのなら、何が聖典の目的ですか?誰もが自分のプラクルティに従って行いをすれば、殺人を犯し、「これが私の気質ですから、どうしようも出来ない」と言うことができませんか?

この様な質問を丁寧に扱うために、クリシュナは「殺人を犯すという思考に従って進むか、その思考から引き下がるのか」が、人であると言います。

そこが、人の自由意志が働く所なのです。

人は、自身の思考をコントロールできませんが、どの思考に自分が共鳴し、共鳴しないのかを選択することが出来ます。

これが、私の持つ唯一の自由で、この自由で十分なのです。

「それぞれの感覚の対象物に関して、愛着と嫌悪があります。それら2つの支配下にその人が来ませんように。なぜなら、それら2つはその人の敵ですから[3-34]」

「他の人のダルマを上手に行うより、自分自身のダルマを不完全でも行い、自分自身のダルマの中での死がより良い。他の人のダルマは恐れをもたらすものである[3-35]」

例え、私がすべきこと[スヴァダルマ]が、好ましくないにしても、他者のダルマを行うよりは、むしろスヴァダルマに留まるのが良いとクリシュナは教えました。

例えば、家庭人[グラハスタ]が、「サンニャーシーは、ヴェーダで指示された毎日の儀式をしなくてよい」という理由で、毎日の儀式を放棄することは、私のダルマではありません。

皆、その人の状況に従い行いをし、自分自身の行いをしながら死ぬことのほうがより良いのです。

なぜなら、他の事をする事は恐れを伴います。

それは私のためにも、社会のためにもなりません。

それぞれの人が、自分自身のカルマをしなければならない、別の言葉で言えば、スヴァダルマが従われなければならないと、クリシュナは言い、アルジュナは、疑いを述べました。

アルジュナが言いました。
「ヴァールシネーヤ(クリシュナ)、たとえ望んでいなくても、まるで何かの力によって強いられるように、何に駆り立てられて人は罪を犯すのでしょう?[3-36]」

アルジュナは、間違っていると知りながら、人は、それを何故するのかを知りたがりました。

この世界には、神聖な力から独立した悪魔と呼ばれる、魔力があるのでしょうか?

クリシュナは、そんな力は無いと言いました。

唯一の悪魔は、その人の中にあると次の詩で表現されました。

バガヴァーンが言いました。
「ラジャスなグナから生まれた、この願望、怒りが大食漢で大きな罪人です。この世界において、それが敵であると知りなさい[3-37]」

「それは、カーマ以外の何ものでもない」とクリシュナは言いました。

カーマが、クローダがそれを行います。

願望が、激しい感情となれば、優先順位が混乱する、カーマの力とはそういうものです。

その願望を満たす為、どんな手段を取ろうとも、もはや気にしなくなる程、その願望は毒を含んだものです。

手に入るもの、結果がとても大事なので、人は手段を妥協し、目をつぶるのです。

「アルジュナよ。これが問題です。ちょうど、煙が火を覆い隠すように、埃が鏡を覆い隠すように、子宮が胎児を隠すように、カーマという姿の敵があなたを隠します[3-38]」

と、クリシュナは解説しました。

このカーマは、ヴィヴェーキーにとっての不断の敵です。

ヴィヴェーキーは、まず、感覚的に追い求める物に関して、それが働いていることや、それは考えとブッディに宿っている事を知り、それを扱わねばなりません。

インドリヤーニ マノー ブッディヒ アッスャ アディシュターナム ウッチャテー。これを理解して、あなたはカーマの外に踏み出す必要があります。それについて、クリシュナが言いました。

「彼らが言うには、感覚器官は体に勝っていて、考えは感覚器官に勝っています、知性は考えに勝っています。ところが知性に勝っている者が彼[アートマー]なのです[3-42]」

クリシュナは、感覚器官は、肉体よりも微細で、行き渡っている性質ゆえに、肉体より優れていると解説しています。

感覚器官より優れているが、疑いを持つ性質である考え[マナス]です。

感覚器官そのものは、単にレポーターという私に与えられた道具であり、悪意はなく、誰も傷つけませんが、それはマナスの手の内にあります。

空想、すなわちマナスが、知性[ブッディ]を圧倒する時、ブッディは働きませんから、マナスそのものが問題になります。

マナスとブッディは、アンタッ・カラナに属する異なる種類の思考で、マナスは、ブッディの手の内にあります。

マナスかブッディ、より強力な方が、私の一日を統轄します。

マナスが強力なら、知性を奪い去り、すべきでない事をさせ、すべき事を忘れさせます。

考えを、適切に保つため、マナスとブッディから踏み出すことで、思考を思考として理解します。

人の性質は、その人の思考と、「私は不完全です」「私は満たされていない」「私は役立たず」「私は価値が無い」という感覚、自分自身についての結論によって決められます。

この結論、アイデンティティーが、絶え間ない挑戦の土台で、人生は絶え間ない闘争になります。

クリシュナは、アルジュナに、この問題を解決する唯一の方法がある事を伝え、この章を締めくくります。

「マハーバーフよ。このように、知性よりも優れているものを知りながら、ブッディによって考えをしっかり整えて、欲望の姿をしていて、とても理解しがたいものである敵を滅ぼしなさい[3-43]」

永遠に純粋[シュッダ]、限りの無い[アーナンダ]、満たされた[プールナ]、唯一の真実[サッテャ]であるアートマー。

そのアートマーが、ブッディを超えたものという理解が、人をブッディから踏み出させてくれます。

サッテャム ・ニャーナム・ アナンタム・ ブランマであるアートマーは、自由です。

この理解があるなら、全ての願望、全ての思考は、ただただ恩恵です。

マナスとブッディという属性[ウパーディ]には限りがありますが、その人は、限りのあるどのような感覚からも自由です。

願望[カーマ]は、予期せぬ出来事の中で、七色の姿でやって来ます。

しかし、カーマは、私がカーマから踏み出すという意味で、手放されるのです。

願望を理解するなら、それらは私の害になったりしません。

これが、終わりない、起こり得る願望[カーマ]を扱う唯一の方法です。

それを踏み出し、自由でありなさい。

なぜなら、私は既に自由なのですから、その事実を発見する必要があるだけです。