चञ्चलं हि मनः कृष्ण प्रमाथि बलवद्दृढम् ।
तस्याहं निग्रहं मन्ये वायोरिव सुदुष्करम् ॥६.३४॥
cañcalaṃ hi manaḥ kṛṣṇa pramāthi balavad-dṛḍham |
tasyāhaṃ nigrahaṃ manye vāyoriva suduṣkaram ||6.34||
実際、クリシュナよ、考えは「不安定」で、強固に根付く暴君です
風と同じ様に、制御することは、私には不可能に思えます
-
帰依者である人々[bhakta-jana]の、罪などの[pāpa-ādi]、全ての制限[doṣa]を、取り除く人[ākarṣati]
(भक्त-जन-पाप-आदि-दोष-आकर्षणात् 5/1 कृष्णः 1/1)
ですから、ギーターの中でクリシュナは神と呼ばれます。
考えは、cañcalaだけでなく、暴君[pramāthi]でもあり、人を狼狽させると、アルジュナは言いました。
実際、考えが動揺するのではなく、考えとは動揺です。
悲しくなりたい、怒りたいと思う人は、誰もいませんが、悲しくなったり怒ってしまいます。
悲しみや怒りという感情が、その人を支配してしまい、培ってきた教養や、地位、知識は、何の役にも立たないようです。
悲しみが、深ければ深いほど、問題はより深刻になり、悲しみ続けることで、人生が豊かになることなどありません。
クリシュナが「あなたは、智恵のある言葉を話してはいますが、悲しむべきことでないことに、悲しんでいます」と話し始めた時のようです。
この詩では、3つの見方がありました。
1.実用主義者の視点(悲しみは、何の価値を持っていない)
2.Vedaの視点(死とは、次の生まれへのステップで、悲しむべきものではない)
3.Vedāntaの視点(私こそが存在・意識で、ありとあらゆるものは、あたかもあるもの)
◎悲しみとは、ある考えのタイプを意味する
空腹感や、喉の渇き、眠りとは違い、考えがなければ、悲しむことはできません。
お腹が減るのに考える必要はありませんが、悲しんだり、怒ったり、憎んだり、動揺したり、落ち込んだり、いらいらしたりするためには、大いに考える必要があるのです。
怒りや悲しみは許可なくやってきます。
怒りや悲しみがある時、2人の人がいます。
1人は、教養や品格を備えた人。
もう1人は、この詩で暴君と言われる怒りや悲しみがある人。
怒りや悲しみは、子供時代に起因し、その人にはそう振る舞和ざるを得ない背景があります。
教養や品格を備えてきた人が、暴君を支配するには、十分な強さを持つ[balavat]しかありませんが、どんなに強い力を持ったとて、暴君を支配することはできません。
アルジュナは、ここで考えを「根深い[dṛḍha]」と表現しています。
これは、ちょうど虫を保護しながら包む絹のように、虫が十分に成長し、外に出るまで繭の中に留めておくことを意味します。
怒りや悲しみ(繭)が、自分(虫)を守るために考えに現れています。
守られたい人がいるのです。
考え自体が、深く根を張り、その根を引き抜けるだけの力など無いように思えます。
考えで考えをコントロールすることなど出来ないなら、唯一の可能性は、その繭を突き破り出る、勘違いの自分自身から抜け出ることです。
◎考えの根は、子供の頃にある
考え、そのルーツは子供時代に起因します。
子供時代の限られた認識に、他の認識がプラスされ、「私は足りていない人」というセンスが中心をなします。
心理学では、この考えを扱います。
アルジュナがここで述べる考えは、心理学上、つまり情緒的な考えで、しっかりと根付いた[dṛḍha]考えです。
考えをコントロールすることは、とても[su]難しく[duṣkara]思えると言います。
考えを閉じ込めようとしても、常に準備した罠の外にありますから不可能です。
例えば、考えの中でマントラを唱えるという役割を与えれば、それを果たしてくれるだろうと思いきや、それはどこか外にあることに気づきます!
考えは、私を遠くまで連れて行ってしまいますから、どれくらいの間、何をしていたのかも思い出せません。
ですから、考えは猿に例えられるのです。
◎ストレスが、いらいらの要因とは限らない
考えに対して取り組むことは決して簡単なことではないと、アルジュナは言いました。
アルジュナは、ダルマの暮らし、正しい振る舞い、正しい価値、素晴らしい業績を成し遂げた人で、皆がアルジュナを尊敬していました。
しかし、そういう全ての資質を兼ね備えていても、アルジュナの考えはチャンチャラだったのです。
◎アルジュナの問題は、普遍的である
アルジュナの考えが、チャンチャラなら、多くの情報で溢れる現代人は、アルジュナの問題に共感し、同じ質問をするでしょう。
実際、考えとはそういうもので、この問題は、いつの時代にも的を得たものです。
それゆえ、考えに注意を向けることで、考えがどのようなものかを知り、ある程度の統制の仕方を知らなければなりません。
次の詩で、クリシュナは、考えをうまく扱う方法に関して、アルジュナの質問に答えます。