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ギーターヨーガ

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【ギーター】第4章6番目の詩

अजोऽपि सन्नव्ययात्मा भूतानामीश्वरोऽपि सन् ।

प्रकृतिं स्वामधिष्ठाय सम्भवाम्यात्ममायया ॥४.६॥

ajo'pi sannavyayātmā bhūtānāmīśvaro'pi san |

prakṛtiṃ svāmadhiṣṭhāya sambhavāmyātmamāyayā ||4.6||

生まれない者であり、知識が衰えないものであり、全ての生き物の神でありながら、
それでも、自分自身のプラクルティを巧みに使い、私自身が持つ創造の力によって、私は「まるで」生まれます

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この詩で、クリシュナが、とても特別な生まれである事を知ります。

クリシュナは、決して生まれない人[ajaḥ]、彼はまるで生まれました。

決して生まれないなら、死にもさらされないと言うことが出来ます。

また、知るための力が衰えたり弱る事の無い人、つまり、無知や勘違いが無い人[avyaya -ātmā]です。

更には、生きとし生けるものの神、皆の体験の為に、全体である創造宇宙の作者、全法則を巧みに使う人ですから、それらの法則に制限されたりしません。

かすかな世界[sūkṣma-prapañca]と、物理的な世界[sthūla-prapañca]の全宇宙創造の原因で、全ての行いの結果を与える人[karma-phala-dātā]です。

水は、海や波を現す原因でありながら、水そのものが結果として現れているように、īśvaraから離れた別のものなどありません。

māyāが、この創造宇宙にとっての物質的な原因です。

śaktiを巧みに使い、彼は「まるで」この創造宇宙という形で生まれてきます。

例えば、手品を見に来た観客は、ただ手品を見ていて、そのトリック(māyā)を見ていません。

そして、もちろん手品師は、手品のトリックに騙されたりしません。

īśvaraとしてのクリシュナは、māyāの片側(手品師側)で、アルジュナは反対側(観客側)で、あるがままに見る事ができません。

個人[jīva]は、māyā(トリック)そのものの中にいますから、個人はそれを巧みに使う事はありませんが、īśvaraはmāyāを巧みに使います。

ですから、個人と神の違いは、ただmāyāのどちら側にいるかです。

クリシュナは、māyāを巧みに使い、そのために全世界と全ての生きものが存在しますが、個人は、無知ゆえに、māyāに惑わされ、クリシュナであり、īśvaraであるアートマーを見ません。

māyāを統制下に置くīśvaraには、個人のような問題はなく、māyāから生まれた世界そのものが、彼の統制下にあります。

個人[jīva]は、自分自身の本質[svarūpa]を知らないということ、それが無知[avidyā]で、ここで伝えられていることです。

ところが、īśvaraとしてクリシュナは「私のmāyāを統制下に保ちながら、私はまるで1つの体を持つ人」と言います。

これが、アヴァターラの定義です。

下って来た人[avatāra]であると言う時、彼は「まるで」体を装います。

個人は、体の中に(自分自身を)失いますが、神は失ったりしないので、「まるで」なのです。

生きながらにして解放された人[jīvanmukta]も、自分自身の本質はアートマーと知るので「“まるで”体を持つ」と言う事ができます。

この様に言えるには、知識が必要で、知識を得るために、人は生きなければなりませんから、生きながらにして解放された人[jīvanmukta]と呼ばれるのです。

個人は、この知識が起こる前、過去の行いとその結果[karma]の圧力によって、考え・感覚を伴う肉体が、ある両親のもとに、ある時間や場所に作られます。

これが「人の誕生」で、そのような人が個人[jīva]です。

param-brahmaであるという知識を得ることによってのみ、生死のサイクルから自由であり得ますが、体は、神の創造物[īśvara-sṛṣṭi]ですから存在し続けます。

◎全知は、考えを必要としない

īśvaraとして、クリシュナの知る力[jñāna-śakti]、行う力[kriyā-śakti]、望む力[icchā-śakti]は、統制下にあり、無限です。

知る力[jñāna-śakti]は無限ですから、知るための考え[antaḥkaraṇa]を必要としません。

考えが、あろうと無かろうと、全ての知識を持ちます。

考え自体が神の創造物ですから、考えには限りがあります。

īśvaraは、考えが現れる前に、知識を持ちますから、īśvaraは、どんな考えも必要ではないのです。

マーヤーが、神[parameśvara]を全知にし、このparameśvaraだけが世界です。

これが全ての手品の種、māyāです。

◎アヴァターラの理解

ヴェーダやプラーナ文学を理解するために、avatāraの概念の何らかの理解が必要です。

バーガヴァタプラーナ、ラーマーヤナ、、マハーバーラタの中で、ラーマやクリシュナは、avatāraとして示されています。

avatāraは、神が体を持って現れたもの。

avatāraのコンセプトが、1.絶対的[pāramārthika]リアリティー、2.経験的[vyāvahārika]リアリティー、3.主観的[prātibhāsika]リアリティーという3つのリアリティーの観点から分析されます。

◎経験できる[vyāvahārika]リアリティー

ポットは想像するものではなく、実際に水を入れるものですが、土という材料に頼って作られていますから、絶対的な真実[pāramārthika-satya]とは言えませんし、また、存在しない(無い)と言うのも道理が通りません。

存在が無いポットが、水を蓄えることなど出来ません。

ポットは、ある時代に生まれ、ある家庭で生き、穴が開き、修理されるという経験、歴史を経てきました。

ポットは明らかに、ある種のリアリティーを経験し、名前と形[nāma-rūpa]があり、一定の法則の中で振る舞うものです。

これが、皆が経験できるリアリティー[vyāvahārika-satya]です。

そして、皆が経験できるリアリティーを理解するために、知覚と、推理や推測[pramāṇa]を持っています。

天国や、天国を得る手段をヴェーダが語る時、それは皆が経験できるリアリティーについてのみ話しています。

場所を持つ天国は、創造宇宙の中にあるので、vyāvahārikaリアリティーの秩序に含まれます。

ヴェーダに申し付けられる様々な儀式は、行い手[kartā]を含みますし、行い手は目的を成し遂げるためのkarmaを行います。

日常的な行い[laukika-karma]であろうが、ヴェーダの申し付け[vaidika-karma]であろうが、行いをして結果を得ますから、それはvyāvahārikaリアリティーです。

手段と目的は、全て何かに頼っていますから、それらは絶対的な[pāramārthika]リアリティーではなく、経験できる領域にあります。

夢やイマジネーションの様に、考えから作られたものではなく、創造宇宙の領域にある、既知と未知全てに行き渡っているものがvyāvahārikaです。

「経験に基づく(皆が経験できる)」という言葉が、最も近い翻訳です。

それはまた、今知られていなくとも、後ほど知られるであろう全てが含まれます。

◎主観的なリアリティー 

主観的[prātibhāsika]リアリティーは、夢というリアリティーの持つ秩序が例えです。

それを見るので、それがあります。

例えば、柱を人と間違える、誰かが自分を嫌っているとイメージする、未知の恐れ、あらゆる形の投影はprātibhāsikaです。

それが無いところにそれを見ます。

私の投影に、何らかのリアリティーを与えます。

考えは、全知ではなく限られていますので、誰もが投影し、間違いを犯します。

皆それぞれが特殊な背景があるので、考えは、ある種の先入観や、恐れ、不安、失望、悲しみなどを作り出し、そこにはない物を見たり、そこにある物を見なかったりすします。

例えば、ある人のしかめっ面を見ただけで、嫌われていると思い込むかもしれません。

考えがあるところには、あらゆる投影や間違いがあり得るのです。

このリアリティーは、私だけにあるので、経験上の基盤がありません。

prātibhāsikaリアリティーがある所では、間違いがあり得ますし、間違いがある所では、間違いの訂正が可能です。

これが、知識が必要な場所です。

例えば、お菓子作りで、塩を砂糖と間違えるなら、出来上がりは全く違います。

砂糖も塩もvyāvahārikaリアリティーですが、 塩を使ってお菓子が出来ると思うなら、それは間違いです。

この特別な事実、この法則を考えれば、間違いは常に起こり得ます。

これは、全て経験の中にあります。

意識[ātmā]は、自分自身で明らかな経験です。

連なる数珠は、糸に保たれるように、意識によって、全ての体験が数珠繋がりにされます。

意識は、3つ経験(熟睡・夢・目覚め)の形の中にもあります。

3つの経験は、個々、そして全体に、意識と呼ばれるひとつの経験の中に保たれています。

私たちが、自分の主観的リアリティーを作り出すことも、秩序に従う世界を扱っていることも明らかです。

こうして、経験的[vyāvahārika]、主観[prātibhāsika]、絶対的[pāramārthika]という3つのリアリティーがあります。

このsat-cit-ānanda-ātmāは、3つの側面のリアリティーの形で存在するように思われます。

より良い言葉が無いので、3つの側面のリアリティーという言葉を使います。

実際、唯一のリアリティー、satya-jñāna-ananta-brahmaだけがあります。

◎リアリティーの持つ3つの秩序の中にある関係

vyāvahārikaリアリティーは、宇宙創造、神の創造[īśvara-sṛṣṭi]と呼ばれ、prātibhāsikaリアリティーは、個人の主観的な考えの投影、創造[jīva-sṛṣṭi]と呼ばれます。

いかなる時も、pāramārthikaリアリティーの基盤の上に、2つのリアリティーの持つ秩序があります。

「自分自身のプラクルティを巧みに使い、自分自身が持つ創造の力によって、私は「まるで」生まれる」と、クリシュナは言います。

神は、全世界を創造することも、また体を装うこともできます。

アヴァターラの概念[avatāra-vāda]に基づき、クリシュナの誕生は、イーシュワラが肉体を装い現れたものという理解です。

しかし、「神が装う肉体は、どのリアリティーの秩序ですか?」と尋ねるでしょう。

クリシュナが、決して生まれないことを教えるため、絶対的リアリティーを教えます。

絶対的リアリティーの視点から、クリシュナは生まれてはいませんし、実際、誰も生まれてはいません。

しかし、御者のMrクリシュナは、pāramārthika-satyaではなく、皆が経験できる事実[vyāvahārika]と言えます。

vyāvahārikaリアリティーであるなら、アルジュナのようにサムサーリーで、カルマに束縛されるなら、māyāを巧みに扱える可能性などあるでしょうか?

◎ジーヴァの生まれが持つ、誰もが経験できるリアリティー

jīvaである王子アルジュナは、12年森に行き、1年間身元を隠し生きなければならなかったのは、過去のカルマ故です。

兄のダルマプットラも、puṇya-pāpaに統轄され、彼のpāpaがサイコロを投げさせ、王国を失いました。

このprārabdha-karmaを含むkarmaが、シャーストラで述べられています。

アルジュナは、カルマから生まれた人[jīva]ですから、生まれ[janma]は、vyāvahārikaです。

両親を持ち、肉体・考え・感覚器官を持つ、これら全てがvyāvahārikaリアリティーです。

一方、īśvaraとしてのクリシュナは、その統括下にmāyāを保ち生まれたと言われました。

後ほど、クリシュナがなぜ生まれたかを見ます。

◎クリシュナの生まれが持つリアリティー

肉体は、五感で捉えられるものですが、五感で体験できるものが、いつも完全な真実ではありません。

例えば、青空のように。

青空は、青い光が、大気中のちりにぶつかって散らばり、青い光は他の色より、散らばりやすい性質ゆえに、青空が広がり、空が青く見えています。

太陽が昇っているのではなく、地球が自転しているから「まるで」太陽が昇っているように見えるように。

クリシュナの誕生も「まるで」ですから、知覚では認識できません。

māyāを伴うīśvaraとしてクリシュナの誕生は、puṇya-pāpaにも、すなわちkarmaに束縛されていませんから、vyāvahārikaリアリティーの地位を持ちません。

誕生自体は、その通りで、pāramārthikaでもあり得ません。

クリシュナは、デーヴァキーとヴァスデーヴァから生まれましたから、不妊症の女性の息子[vandhyā-putra]ではなく、完全に存在しないもの[atyanta-asat]でもあり得ません。

では、リアリティーという意味で、クリシュナの生まれはどのように説明できるのか?

クリシュナの生まれに関しては、prātibhāsikaです。

私がクリシュナを見るので、クリシュナはいます。

クリシュナの生まれは、ただの現れで、その生まれと体は、純粋にmāyāですが、カルマの法則の圧力はありません。

īśvaraは、jīvatvaの状態を運命づけられていないのです。

◎なぜイーシュワラが肉体を装うのか?

善良な人々[dharmī]や、神々[deva]の祈りが、avatāraを呼び起こしますから、ダルマを求める祈りが、神が1の体を装うための物質的な原因[upādāna-kāraṇa]です。

個人の祈りがpuṇyaになって、目的を果たす為の特別な体が生まれます。

ナラシムハやヴァーマナというavatāraは、ある仕事を片付ける為に下ってきましたが、ラーマは、それと同時に、ダルマの人生の生きる見本を示すという役割も果たし、クリシュナは、喜びと知識が姿を現した人でした。

īśvaraとしてクリシュナを祈り招く為に、īśvaraとしてのクリシュナの絵や銅像が必要とされるだけです。

例え、1つの石にでも呼び起こし祈ることができるのです。

この、1つの形に神を招き祈る事と、avatāraの概念は全く異なることを理解します。

この詩の「自身のmāyāの力によって、私は“まるで”体を装います」を、シャンカラは「まるで、体を持つかのように、まるで生まれるかのように」と解説しました。

 सम्भवामि I/1 देहवान् 1/1 इव 0 भवामि I/1 जातः 1/1 इव 0]」

クリシュナの生まれは、puṇya-pāpaからではないので「まるで[iva]」という言葉が、vyāvahārikaでは無いことを仄めかしています。

īśvarapuṇya-pāpaがあるなら、antaḥ-kāraṇaに制限を持つ個人です。

īśvaraは、全知ですから不可能です。

クリシュナの言う「puṇya-pāpa無しに、私は生まれました」が、まさにavatāraの概念です。

次の詩でクリシュナは、īśvaraとして、なぜ体を装うのかを語ります。