असंयतात्मना योगो दुष्प्राप इति मे मतिः ।
वश्यात्मना तु यतता शक्योऽवाप्तुमुपायतः ॥६.३६॥
asaṃyatātmanā yogo duṣprāpa iti me matiḥ |
vaśyātmanā tu yatatā śakyo'vāptumupāyataḥ ||6.36||
考えが統制されていない人にとって、ヨーガは得難い、これが私の見解です
一方、考えが統制され、正しい方法で努力する人は、それを得ることができます
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繰り返し瞑想練習[abhyāsa]しない人、客観性[vairāgya]のない人が、考えが統制されない人[asaṃyatātmanā]と、この詩で呼ばれます。
考えは統制できるのですが、それには困難を伴います[duṣprāpa]。
更に、考えの制御がない限り、全ての中に変わらない等しさを見ること、その中に全てのものが存在していると見ること[yoga]は、出来ないとクリシュナは言います。
これがクリシュナの見解[mati]です。
abhyāsaとvairāgyaによって、考えが手の内に置かれ[vaśyātmanā]、その人は常に注意深い人です。
「6年も呼吸する練習しました」などと言えないように、一定期間練習するものではなく、注意深さは常に自分自身と共にあるべきです。
しばらく呼吸の練習をして、その後呼吸を止めてしまうようなものではなく、注意深く生きること、神に溢れているという認識そのものが、私の人生です。
この注意深さを維持し続ける人[yatatā]、考えを統制した人[vaśyātmanā]は、変わらない等しさの世界観を得ることが出来ます[yogaḥ avāptum śakyaḥ]。
◎しなければならない何かではない
ヨーガは、特別な方法[upāyataḥ]で得られ、その手段がabhyāsaとvairāgyaですから、考えに注意を払わなければなりません。
クリシュナが、アルジュナに教えることは、もう何もなく、ただabhyāsaとvairāgyaをするだけです。
abhyāsaとvairāgyaが、知識を得るために、様々な問題や障害を上手く処理します。
vastuや、brahma-ātmāの話題は18章まで続きますが、今、アルジュナに為されなければならない事は、瞑想に関してなのです。