千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章38番目の詩

कच्चिन्नोभयविभ्रष्टश्छिन्नाभ्रमिव नश्यति ।

अप्रतिष्ठो महाबाहो विमूढो ब्रह्मणः पथि ॥६.३८॥

kaccinnobhayavibhraṣṭaśchinnābhramiva naśyati |

apratiṣṭho mahābāho vimūḍho brahmaṇaḥ pathi ||6.38||

ブランマンの道に迷い、どちらからも外れてしまった人は、どんな支援を得ることもなく
引き裂かれた小さな雲の様に破壊されてしまわないでしょうか? おおクリシュナよ。

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ここで議論される人は、前の詩でアルジュナが表現したモークシャのための適切な努力をしない人[ayati]のことで、karma-yogaとsannyāsa、両方のライフスタイルからも逸脱してしまった人[ubhayavibhraṣṭa]です。

karma-mārga(pravṛtti-mārga)、あるいはkarma-yogaを諦めてしまいました。

karma-yogaは、知識を追い求めた、行いのある生活ですが、最終的にsannyāsaの生活を選択して知識を追求するよう、準備をさせるものです。

その人は、行いを手放した生き方[brahmaṇaḥ-panthā]も、実りなく失敗に終わってしまいますから、どちらからも脱落してしまったのです。

両方を失った人は、おそらく年をとりすぎてkarma-mārgaに戻ることもできませんし、sannyāsaからkarma-mārgaに戻るのも正しくありません。

彼は、anityatvaを知っていますから、行いに動機も持てませんし、賢者[jñānī]の満足感もないので、宙ぶらりんの状態です。

居場所もない上に、当てはまるグループもなく、彼は迷ってしまった人[vimūḍhaḥ]です。

間違いを犯したと感じるか、あるいは、自分が個人なのか、全体なのかについて混乱します。

この疑いが残る限り、ブランマンの知識の追求に進んでも何も成し遂げていないことになるのです。

◎ブランマンへの道はない

シャンカラは解説で、pathi の意味をmargaと説明し、この詩で意味されるのはsannyāsaの生き方を示していることを明らかにしました。

私がbrahmanですから、brahmanに至る「方法」「道」などなく、brahmanの知識の探求があります。

ここで議論されているsannyāsīは、迷った人[vimūḍha]です。

「brahmanの道に迷う」とは、知識の追求において、アルジュナがまだ混乱し、迷っていることを意味します。

アルジュナは「その人は、自分自身を破壊してしまわないのでしょうか[naśyati na kim]」? と質問し、大きな雲から離れてしまった小さな雲の壊れた様子に例えました。

この小さな雲は、ばらばらになってヒマラヤにたどり着くために急いでいるのです。

◎形がなければ、どんなものにでもなれる

小さな雲のように、先を急ぐ時、体裁を置き去りにして、完全にそのプロセスに没頭することができます。

サンニャーサは、まさに体裁がない(組織に属しない)という意味です。

決まった生活様式も、何かをやらされるという圧力もないので、怠けることもできます。

これをするという決め事も、雇われたり、雇ったりすることもなく、世間的な生き方にとどまらせようとする両親もいませんし、妻子も理解をもとに手放します。

ヴェーダで申し付けられるカルマが免除されるので、宗教的な規範もなく、ヒッピーにだってなれるのです。

そんな人が、自分自身を駄目にしてしまうのではないかと考え、アルジュナは、両方のライフスタイルから逸脱してしまった人[ubhayavibhraṣṭa]の運命について、疑いを晴らしてもらうように、クリシュナに質問をします。