यदा यदा हि धर्मस्य ग्लानिर्भवति भारत ।
अभ्युत्थानमधर्मस्य तदात्मानं सृजाम्यहम् ॥४.७॥
yadā yadā hi dharmasya glānirbhavati bhārata |
abhyutthānamadharmasya tadātmānaṃ sṛjāmyaham ||4.7||
アルジュナよ。正しい生き方が衰え、間違った生き方が増長する時は
いつでも、私は自分自身を現わします
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クリシュナの生まれが、アヴァターラの概念であることを4-6の詩で見ました。
自分自身のdharma-adharma、puṇya-pāpaに束縛されることなく、māyāの力で、クリシュナはこの特別な姿にまるで生まれました。
創造宇宙がīśvaraの姿で、その中に個人は生まれます。
意識の視点からは、ただ唯一のparamatmāだけがあり、それぞれの個人はparamatmā、つまりbrahmanです。
しかし、世界を見ている個の視点から見ると、その唯一が多数となり、個と神の間に違いがあるのです。
個人は、無知[avidyā]ゆえに自分自身を、肉体・考え・感覚器官の集合体[kārya-karanṇ-saṁghāta]と見るので、個人は個人として生まれ続けます。
無知から行いをし続け、puṇya-pāpaを作り出し、次の生まれを結果として実らせます。
この視点は、皆が経験できるリアリティー[vyāvahārika]で、絶対的なリアリティー[pāramārthika]とは違った視点です。
個人は自分自身のkarmaのため生まれますが、アヴァターラはkarmaのためではありません。
無知があるアヴァターラは、行い手ですから、イーシュワラではありません。
これが個人の生まれと、イーシュワラの生まれの違いです。
全創造宇宙はイーシュワラで、イーシュワラが、ある時代、何らかの目的で、特定の姿を装う時、その姿をアヴァターラと呼び、その概念がプラーナの中で表現されています。
「それがどのようであったかが、これです[iti ha āsa]」という意味のitihāsaという言葉は、叙事詩に確かな歴史性を与えますが、マハーバーラタに見られる物語の多くは、実際の歴史的な出来事が紡がれたものです。
◎アヴァターラは役者のよう
クリシュナは、アヴァターラとして表現されますが、それは、舞台の役者のようなものです。
役者は、自分が役ではないことをよく知っています。
クリシュナは、役を演じていることを知っていましたから、彼の生まれに関して言えば、絶対的な真実[pāramārthika]でも、誰もが経験できる事実[vyāvahārika]でもなく、役を演じている人ですからprātibhāsikaです。
同様にjñānīは、自分自身を行い手と見ていませんから、jñānīにとって本当のvyāvahāraは存在しません。
jñānīの視点、つまりātmāの視点からは、全てがprātibhāsikaです。
イーシュワラが、肉体を装い、まるで一人の人であるかのように装います。
彼は、vyāvahārikaの領域の中で振る舞いますが、イーシュワラの視点からは、アヴァターラは純粋にprātibhāsikaで、純粋にmāyāです。
手品を見る観客は、全てがリアルだと見ますが、手品師の視点からは、全ては手品、すなわちmāyāです。
◎いつ、イーシュワラは体を装うのか?
イーシュワラは、いつ、どんな理由で生まれるのか?という疑問が、この詩と次の詩で述べられます。
自由意志という恩恵を授かる人間は、自由意志を悪用することがあるかもしれません。
この自由意志の悪用によって、破壊が起こる時、もはやダルマに沿った目的を成し遂げるために、合法的な方法に従うことができません。
社会が様々な探究に全く貢献しないので、モークシャを得るための方法に従う事もできないでしょう。
ダルマに沿って富を追求することですら、法と秩序の構造が無くてはなりません。
フットボールのゲームでも、ルールに従わなければゲームはありません。
審判員を追い出し、勝てないと思った時、自分でホイッスルを吹き始めたり、やりたい放題ならゲームなど成り立ちません。
同様に、人生のゲームもルールが無ければショーは成り立たず、楽しむことができません。
家庭も、社会も、日々の生活で秩序が保たれるためには、何らかのルールが必要で、ルールが従われないなら、ただ混乱があります。
この種の問題が、正しい生き方が衰退すること[dharmasya glāniḥ]と呼ばれます。
人間の自由意志が悪用される時、物事を秩序の中に置くために、徹底した行いが必要とされ、神そのものが実際に何かをする事を決めているのではないにしても、この徹底した行いがイーシュワラによってなされます。
どんな行いも、この徹底した行いは、皆がした祈り、行いの結果[karma-phala]です。
ダルマに従いたい人々が、自由意志の悪用で苦む時、ダルマに従うことができません。
結果、モークシャもありませんから、皆が祈るのです。
◎アダルマは、ダルマの崩壊にとっての本当の原因
ダルマは神、生きた宇宙の秩序ですから、燃やされたり、破壊されるような物ではありません。
それは人々が従う価値ですから、人がダルマに従わないなら、その時ダルマは破壊される[dharmasya glānirbhavati]と言われます。
自身の役割[svadharma]に従わないなら、ある種の結果を得ませんが、ここでの真の問題は、ダルマの衰退がある時、アダルマの増大が常にあるという事です。
自分のダルマに従わないなら、その人は、他の何かをし、その何かがアダルマですから、これがダルマの崩壊をもたらします。
法と秩序が従われなず、その価値が尊ばれなければ、アダルマの増殖は自然な結果です。[adharmasya abhyutthānam ]
ダルマに従いたくとも出来ない人々が祈り、結果、神が特別な姿を装います。
この概念は、ヴェーダーンタの理解には重要ではなくとも、人は、儀式や祈りなどの形でカルマができることを知る必要があります。
アヴァターラの概念が、どの様な事で、どの様に繋がっているを理解します。
自分自身が全体であるという真実がヴェーダーンタで、このアヴァターラの概念が、理解の助けとなるのです。
クリシュナが「その時、私は特別な姿の中に自分自身を運び入れます」という事でアヴァターラの概念を紹介します。
リアリティーの持つ3つの秩序で見てきました。
クリシュナはデーヴァキーから生まれましたが、両親から染色体を受け継いで生まれたのではなく、彼は望んでこの特別な体に宿ったと、仄めかしています。
本質がヴィシュヌ神に他ならないクリシュナが、別の時代には、柱から生まれたナラシムハ・アヴァターラだと文学で見ますから、彼の生まれは行いとその結果[prakṛti]ではないのです。
クリシュナ自身が、この特別な肉体を生み出した事を、ここで明確に発言しました。
ダルマが衰退し、アダルマの増長がある時、なぜ自分が肉体を装うのかをクリシュナは話し始めます。