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ギーターヨーガ

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【ギーター】第4章8番目の詩

परित्राणाय साधूनां विनाशाय च दुष्कृताम् ।
धर्मसंस्थापनार्थाय सम्भवामि युगे युगे ॥४.८॥

paritrāṇāya sādhūnāṃ vināśāya ca duṣkṛtām |
dharmasaṃsthāpanārthāya sambhavāmi yuge yuge ||4.8||

ダルマに専心する人々を守るため、アダルマに従う人々の破壊(改心)と、ダルマの確立のため、私はユガごとに生まれます

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アヴァターラはpuṇya-pāpaから自由なので、puṇya-pāpaを体験するためにアヴァターラが下って来るのではありません 。

アヴァターラは、サムサーリーの人生を苦しむためにやって来るのでもありません。

ダルマの人生に専心している人々が守られれば、ダルマが守られますから、ダルマを守るため[paritrāṇāya sādhūnāṃ]、様々な方法で実行されます。

1つは、ダルマから外れた事をする人たちを折檻すること[vināśāya duṣkṛtām]です。

破壊[vināśa]という言葉の意味は、アダルマに従う人たちをダルマの道に転換するという意味です。

もっと適切に言うなら、それはダルマの再構築のために[dharmasaṃsthāpanārthāya]アヴァターラは下ってきます。

◎どうすればダルマは再構築できるのか?

秩序[dharma]の再構築は、 ダルマに従う人々を生かすことによってなされます。

ダルマを成し遂げる他の方法はありません。

この正しい理解が無い時、人々は、大きな組織体で、大きな建物などのダルマの学会制度を設立します。

しかし、ダルマのための建物を作っても、ダルマに従わない人々は、その建物ごと破壊するでしょう。

全ての宗教組織は、ダルマを成し遂げる目的ではじまりますが、結果、その多くがアダールミカになるのです。

学会や制度がダルマを成し遂げることはありません。

ダルマの人生を生きる事によってのみ、ダルマは成し遂げられ、ダルマは守られます。

学問で例えるなら、学ぶ人の為に図書館があり、その学ぶ人の環境が保たれ、援助される時、学問が守られます。

そのような基盤があって、学問に報いる価値があります。

もし、先生という職業が、社会において最も低賃金なら、当然、他の職業に惹かれるでしょう。

カリフォルニアのシリコンバレーが、高収入と休暇を多く与え、多くの大学教授を魅惑しました。

学者を援助する環境があるなら、誰もが学者になり、学問が守られるのです。

ダルマもそれに似て、ダルマに従うための助けになる基盤がある時、つまり、ダルミーが守られる時守られます。

音楽や、その他の芸術、美術など様々な人間の表現を通して、ダルマが守られますから、ダルマが根付く文化や風習をサポートするのです。

ダルマに基づく文化的な慣習制度がサポートすることが、ダルマを守るための手段です。

生活の全側面が、複雑に絡み合うので、ダルミーが守られないなら、ダルマはただ去るでしょう。

◎人々が文化であり宗教です

ダルマを守ることは、文化、宗教などを守る事ですから、人々から離れて文化も宗教もないのです。

ダルマと密接に繋がる慣習制度を守り、与えられた状況で、すべきでない事をしたり、すべき事をしない人々は、改心しなければなりません。

ただサードゥだけが住んでいた時代のリシケシで、彼らは、全ての時間をシャーストラを学ぶ事に使いました。

インドでは、サードゥになる選択は、いつでも可能です。

世界に幻滅した人や、仕事や家庭を失った人がサードゥになることを選んだとしても、彼らは、このライフスタイルは「何がなんたるかを学ぶこと」ということを知り、学び始めたものでした。

今日、リシケシのサードゥは、アーシュラムを運営したり、ヴィーナーを学んだり、この知識を勉強していないかもしれません。

音楽は、バクティーを学ぶサーダナとなり得ますが、音楽をするために、サンニャーシーになるべきではないのです。

他のサンニャーシーは、ヨーガ・アーサナを少し学び、アメリカでアーシュラムを開きますし、岩の上で2時間頭立ちをするサードゥもいます。

頭立ちのアーサナもサーダナとして役立ちますが、ここでのポイントは、頭は何に使うのか?ということを知らないことです。

◎イーシュワラが再び来る時なのか?

もし、ギーターの先生がいつも石を投げつけられ、学びが妨げられ続けるなら、イーシュワラとしてクリシュナが来るでしょう。

8割の人がアダルマに人生を譲るなら、ダルマに従う2割の人は、祈ることしかできませんから、その時イーシュワラが来ます。

アダルマがある時だけ、ダルマの擁護が必要です。

ダルマに従う人々[dharmī]がいる時、悪い行いをする人々[duṣkṛta]が変わり、アダルマが滅ぼされます。

アヴァターラが来る時、人々は改心させられ、彼らは、アダルマの生き方を手放します。

これが、アダルマの破壊[vināśāya ca duṣkṛtām]の意味です。

アダルミーが破壊されなければならないのではなく、アダルマが手放され、ダルマが再構築されなければならないのです。

クリシュナが「どの時代にも、私は生まれる[sambhavāmi yuge yuge ]」と言うのは、ユガごとに、アヴァターラが下ってくるのではなく、ダルマが衰退し、アダルマが増殖する時、ダルマを支える目的で、特別な姿をイーシュワラは装うということです。

この姿がアヴァターラです。