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ギーターヨーガ

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【ギーター】第4章10番目の詩

वीतरागभयक्रोधा मन्मया मामुपाश्रिताः ।

बहवो ज्ञानतपसा पूता मद्भावमागताः ॥४.१०॥

vītarāgabhayakrodhā manmayā māmupāśritāḥ |

bahavo jñānatapasā pūtā madbhāvamāgatāḥ ||4.10||

切望、恐れ、そして怒りから自由で、完全に私に解決していて、私を拠り所としていて

知識の学びによって浄化されている多くの人々が、私の本質に戻ってきました

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クリシュナを知る人は、リアリティーにおいて、本当の生まれや行いが無いと知ることを見てきました。

ある時代、ある場所に生まれたMr.クリシュナでは無いのと同じ様に、その人は、ただparama-ātmāです。

この様にクリシュナを知ることは、自分自身を知ることです。

ジーヴァとイーシュワラの間にある等式を知らない人、限られた知識の人[alpajña]、すなわち個人が、全知であること[sarvajñatva]を理解することは出来ません。

ちっぽけな個人と、偉大である全知を比較しているだけだからです。

限れた知識[alpajña]も全知[sarvajña]も、それは単に属性[upādhi]であり、それら2つ間に違いがあります。

parama-ātmāを知る人のみが、私に到達する」は、自分自身から離れていないparama-ātmāの意味で理解します。

宇宙創造の始まりからあるこの知識は、新しい体験など何も無く、理解することでのみ到達するとクリシュナは言います。

しかし、全ての人が彼に到達しないのは何故なのか?

人が、切望や恐れや怒りに駆り立てられているなら、彼に到達する(自分に寛げる)ことなどあり得ません。

彼に到達する事は至ってシンプルですが、まずは、自分自身が何を求めているのかを認識しなければなりません。

自分自身を探し回った10人目の男は、救いを求め静かになり、老人の言葉に耳を傾けました。

しかし実際、その男は、最初からずっとそこに在りました。

同じように、既に私はparama-ātmāですから、到達したりしません。

ですから、「彼に到達しないのはなぜか?」というより、むしろ「その人は、どこまで識別していて、何を求めているのか?」の方が相応しい質問です。

切望や恐れや怒りが去った人々[vītarāgabhayakrodhāḥ]は、知識という意味で彼に到達した人だと述べられました。

◎恐れの本質

物に対する「得たい[rāga]」があるなら、何かを「避けたい[dveṣa]」もあり、その「~たい」が願望です。

これら2つ[rāga-dveṣa]は共にあり、強力に束縛する性質があります。

束縛のある願望[rāga]は、期待がありますから、期待に沿わない心配事、つまり恐れ[bhaya]がいつもあります。

期待がある時は、期待が満たされない可能性が常にあり、満たされなければ、失敗の感覚があります。

人は、全知ではありませんから、失敗の恐れがいつもあります。

物事は、いつも思うように行かないので、rāga-dveṣaに駆り立てられる限り、不快な未知の恐れがあるということを理解します。

◎怒りの性質

rāga-dveṣaは恐れを含みますし、また怒り[krodha]も含みます。

願望[kāma]が満たされることを妨げる何かに対しての怒りに変わります。

妨げは、私と私の成し遂げたいものも間にいる誰かかもしれません。

その時、私の願望[kāma]は、怒り[krodha]に変わります。

束縛のある願望[kāma]でなければ、怒り[krodha]は無いのですが、その願望が叶わないなら、私は満たされたりしないと思うなら、束縛のあるrāgaですから、怒り[krodha]は避ける事ができません。

ところが、適切な考え方(神を認識し、神に寛げ見方)で、rāga-dveṣaに注意を払うなら、人は願望や恐れや怒りから比較的自由な人[vītarāgabhayakrodhāḥ]です。

「彼らは私と1つになる[manmayāḥ bhavanti]」と言われる人々は、本質的にジーヴァから離れた別の物ではないīśvaraの宇宙観を持つ人々のことです。

◎イーシュワラとジーヴァの間に違いが無いという宇宙観

「神は偉大で、私はちっぽけ」

この見せかけの違いが、upādhiによって引き起こされますが、個と神の間に本当の違いはありません。

この違いがmityāで、違いが無いことがsatyaです。

「個人と神がイコールであるという宇宙観[tat tvam asi]、違いが無いという宇宙観[abheda-buddhi]は、分析[manana]と熟考[nididhyāsana]によって明確にされます。

この宇宙観が明確な人は、この詩で、完全にparameśvaraだけに解決した人々と言われます。

[mām ( 0 परमेश्वरम् 2/1)upāśritāḥ( केवल-ज्ञान-निष्ठाः 1/3 )

自分自身がparameśvaraですから、個人は神から離れているという間違った観念はありません。

この特別な宇宙観への疑いが全く無い人が、完全な純粋さを意味する[pūta]と呼ばれます。

paramātmāは、完全に純粋ですから、与えられた純粋ではなく、これっぽちの不純さすらありません。

純粋にされなければならないものなら、何らかのの不純さがいつもあります。

その人は、道具[sādhana]である、浄化の火である知識[jñānatapas]によって純粋になりました。

その知識によって、人はどのように純粋になるのか?

その知識とは、自分自身は、どんな行いもしたことがない、従ってどんな行いも犯していないということです。

行い手でも行いの対象物でもないので、傷つくものではありません。

自分自身は、いつも永遠に純粋[nitya-śuddha]です。

切望、恐れ、怒りが去った人々[vītarāgabhayakrodhāḥ]ですから、既にカルマ・ヨーガを通して、必要な考えの準備[antaḥkaraṇa-śuddh]があります。

しかし、考えには質があり、好き嫌いという形でaśuddhiは残ります。

ですから、カルマヨーガを通して得るantaḥkaraṇa-śuddhiは、完全ではなく、比較上のものです。

自分自身が完全にśuddhaであることは、自分自身で既に明らかですから、成し遂げる必要はありません。

しかし、比較上のśuddhi[antaḥkaraṇa-śuddhi]は、考えに成し遂げられることなのです。

◎比較上のシュッディと絶対完全なシュッディ

比較上のśuddhiは、注意深さ、教え、専心、そして祈り深い生き方、浄化の生き方です。

これには、ある一定の期間がかかりますが、完全無欠のśuddhiは、過程というものはあり得ません。

完全無欠のśuddhaである自分自身は、既に純粋ですから、rāga-dveṣa、puṇya-pāpa、ありとあらゆる物から自由です。

この純粋さが、自分自身の本質で、全ての属性からの自由な私[nirgun-ātmā]、行い手の性質からの自由[akartā]なのです。

そして、これを知る人も、ātmāとして永遠に純粋という事実を理解しますから、純粋[pūta]です。

「彼らは私に戻ります[mad bhāvam āgatāḥ]」

この「戻って来る」は、jīvaがiīśvaraの上に座るのでもなく、jīvaがiīśvaraのパーツになったりすることでもありません。

jīvaとiīśvaraはイコールという意味で理解されます。

この事実を知る人[jñāna-niṣṭha]は、知識を得ただけではなく、知識を十分に成し遂げ人です

「バガヴァーンに到達する」は、知識以外のどんなtapasにも頼っていません。

様々なtapasがありますから、ここではjñānaという言葉が重要です。

◎知識の探究は主要なタパス

スピリチュアルな、または宗教上の鍛錬を意味する言葉がタパスです。

例えば、ガーヤットリーマントラを6時間唱える人は、宗教上のタパスをしていると言えますし、祈りとして、宗教上の目的のために一定時間沈黙を観察するなら、それはタパスと規定されます。

しかしながら、他者のことを思い、単に沈黙を保っているなら、それはタパスではありません。

熟考や、シャーストラの勉強のようなスピリチュアルな鍛錬をするのは、タパスです。

シャーストラの勉強[svādhyāya]は、偉大なタパスとみなされますから、シャーストラを聞くこと[śravaṇa]や、自分自身の探究[vicāra]に専念している人は、タパスをしています。

そして、この知識の探究もタパスで、この知識を成し遂げるには、jñāna-tapasだけを必要とします。

「知る人」「知られるもの」「知るための道具」があれば知識は自動的ですから、知るとは、行いではありません。

jñāna-niṣṭhāは、他のどのタパスにも頼っていないことを示すために、jñānaという言葉がtapasの前に置かれます。

モークシャは、この知識においてのみ遂げられますから、知識の探究[vicāra]そのものが方法手段です。

他の全ての鍛錬は、考えの準備[antaḥkaraṇa-śuddhi]のためですから、ニ次的な方法道具です。

理解されるべきことは、antaḥkaraṇa-śuddhiは、モークシャにとっての間接的な道具であり、モークシャの探求は、知識という直接の道具が必要だということです。

◎誰も彼もがイーシュワラに戻りますか?

「多くの人[bahavaḥ]」というクリシュナの言葉に、アルジュナは「なぜ、全員ではないのか?」と尋ねることができました。

クリシュナは「私には何もできません。なぜなら、見せかけの違いはあれど、あなたは最初から私で、私から離れてなどいませんから。あなたが、皆が私を祈り招くことができ、私は祝福します。あなたがたが望むことを私は実らせるだけです。」と言うでしょう。

「イーシュワラは不公平なのか?」という疑問が残らない様、イーシュワラが、いかなる非難からも、どの様に自由であるかの説明が、次のセクションで述べられます。