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ギーターヨーガ

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【ギーター】第4章11番目の詩

ये यथा मां प्रपद्यन्ते तांस्तथैव भजाम्यहम् ।

मम वर्त्मानुवर्तन्ते मनुष्याः पार्थ सर्वशः ॥४.११॥

ye yathā māṃ prapadyante tāṃstathaiva bhajāmyaham |

mama vartmānuvartante manuṣyāḥ pārtha sarvaśaḥ ||4.11||

私は、私をどのような方法であれ祈る人々を、その同じ方法で祝福します

アルジュナよ、あらゆる方法で人々は私の道に従います
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「どんな風に神を祈るべきなのか?」について、神としてここでクリシュナが答えます。

それはとてもシンプルで、富を手に入れるために泥棒になれば、投獄の判決によって祝福されます。

もし、帰依者が神をクリシュナの形で崇拝するなら、クリシュナの形が現れます。

神をクリシュナと見ることは、主観的ですが、この学びに役に立つ見方です。

クリシュナ神の像をただの石ころと見る人もいます。

長い間、神をクリシュナの形で崇拝してきた帰依者は、神をその形で視覚化することが出来るので、「私は昨日クリシュナを見た」と言うかもしれませんが、この種の神は来ては去ってゆきます。

そのVisionは時間に制限されていますが、クリシュナを見たその人(主体)は残りますから、来ては去る神より、帰依者が偉大になってしまいますが、神をクリシュナの形で崇拝することに意味が無いということではありません。

もし神が他の形、例えば、ブーツを履き、スーツを着る西洋の神として現れるなら、帰依者は混乱しますから、クリシュナは「どんな形であれ、私は祈られる形だけで現れる」と言います。

◎あなたが種を撒くように、あなたは収穫するでしょう 

この声明は、形だけでなく目的にも適用できます。

「私はどんな目的で祈られようとも、その目的のために働きます。」

例えば、苦しんでいる時には、その苦しみからの解放を望むように、通常、人々は、限られた結果しか望みません。

この詩は、ヴェーダの儀式と祈りに関連していますが、宗教的な範囲を超えて、日常生活にもあてはめることができます。

「私は世界中の様々な資源、法、力、可能性としてあなたの手に入ります。どんな形で呼び出そうとも、私はその形で現れます。」

筋肉をつけたくて、毎日ジム通いする人は、筋肉の姿にだけ神を祈り呼び起こすので、筋肉として祝福され、神は単に筋肉の姿として現れるでしょう!

もし左腕だけを鍛えるなら、神はそこだけに盛り上がる、それが神です。

聖典[śruti]は、人々がどんな形で祈りを捧げても、その形で結果が現れると言います。

究極の目的は常に神[bhagavān]ですが、二頭筋以外に目標を持たない人は、この二頭筋の形にbhagavānを認識しないかもしれません。

この様に、蒔いたものは刈り取らねばなりませんから、どのような形で祈願しても、その形のみで神(結果)が現れるのです。
 
◎異教徒の祈りというのはなく、ただ、祈りがあります

様々な宗教が、独自の祈りの形がありますが、ある1つの祈りが、他の祈りより効果があるのではなく、言語に関わらず、神は招き祈られます。

ヴェーダの儀式であれ、それ以外の部族の祈りであれ、シュラッダーを持ち祈るなら、雨が降るでしょう。

様式が違っていても、結果[phala]は同じですから、どんな形の祈りも、他の祈りと同様に効果があります。

これは、他の信仰形態を寛容に受け入れると言う事ではなく、しっかりと理解されるべきことです。

異教徒の祈りなど存在せず、ただ、祈りがあるだけです。

部族の人々の方言での祈りは、私には理解されませんが、バガヴァーンには理解されるのです。

言葉があり、祈る人と神の間にコミュニケーションがあることが、大事なのです。

祈りは、特定の形式、特定の言語で表現された想いであり、その意味を自分自身も知らないかもしれませんが、意図は確実に存在し、これが祈りを通して神に伝えられるのです。

祈りの言葉そのものについて、神は全ての言語を知っています!

すべきことは、自身が表現しなければならないことを表現するだけで、宗教的に順応することではありません。

何がイーシュワラで、何が祈りなのか、その理解だけです。

心が寛大である必要も、偉大な聖者[sādhū]である必要もありません。

祈りの本質を理解することは、それぞれの宗教が神をどのように定義するかということと混同すべきではありません。

それはあらゆる種類の問題が生じる場所です。

現実の問題、概念などに関しては、実際の問題がありますが、これらは祈りとは何の関係もありません。

真の問題は、『自由とは何か?』『私はなぜ祈るのか?』『それは限定された結果のためなのか、それとも他の理由なのか?』です。

もしモークシャが望むものなら、理解すべきことがあります。

私が全体であることは事実であり、信念ではなく、世界の様々な宗教で語られている事とは全く異なります。

それは、落ち着いて理解されるべき事実で、ある1つの宗教にコミットするようなものではありません。

◎宗教に関わっていない人たちですら祝福されます

ここでバガヴァーンは、宗教に繋がりを持たない人でさえ祝福すると言います。

これは、宗教的ではないと主張する人々や、宗教に批判的な人々も含みます。

ある人にとっては、宗教はお金や権力にすぎず、共産主義者にとっては、宗教は国家統制主義です。

彼らにとっての宗教がどんなものであれ、その形の中でのみ、彼らは祝福されますし、非難されません。

この詩の中で、クリシュナはアルジュナに言います。

「全ての人が私だけに従います[mama vartma anuvartante manuṣyāḥ pārtha sarvaśaḥ ]」

言い換えるなら「特別な目的地こそが、ゴールと思っている人も、それは旅の一部に過ぎず、お金や権力がゴールでも、その人は私への途上にいます。なぜなら、権力やお金も私ですから。富の女神[lakṣmī]は、私と共にあり、権力も私と共にだけあります。」

人生をかけて健康にコミットする人は、健康という形でlakṣmīを経験するでしょう。

権力を得ることに専心する人は、祈りが適切で、prārabdha-karmaが、その祈りに反していないなら、その人は権力を得るでしょう。

ですからクリシュナは言います。

「知っていようがいまいが、大小様々なゴールを求める人々全てが、私への途上にいます。」

◎全ての人が小さく感じる事から自由でありたい

知っていようがいまいが、本当は自分自身[paramātmā]を追い求めています。

ちっぽけである事からの自由を求めているからこそ、誰もが、この自由の探究者です。

満足を追い求める事は、ちっぽけである事からの自由を求めている事と同じこと。

更に言えば、真の満足を知らなけば、満足を求めてると言う事は、実際本当ではありません。

しかし、私達は何がちっぽけかを明らかに知っていて、この小ささからの自由を求めています。

ちっぽけである事からの自由が、満ち足りている事の本質[pūrṇatva]という言葉で意味されることです。

誰もが、満たされたい、幸せでありたいと願いますから、満足や幸せの本質が、神のまさに本質です。

全ての人々が、この満足や幸せを求めるので、それを知らなくとも、皆が、神への途上にいます。

そして、何を探し求めているのかを知らない人は、ひたすら探し続けます。

「皆が、私を求めている事を知らないので、私の所有物の探究に時間を使う」とクリシュナは言ったかもしれません。

これは、誰かと結婚したいのに、その人の爪や髪の毛と結婚するのと同じです!

権力、名声、静寂、またはその他のものを求めことも、同じことです。

彼らは、神の爪や髪の毛に過ぎないことを知らないのです。

自分自身が、神から分かれていると考え、一つの側面だけを求め、他のすべてを排除します。

全てがバガヴァーンであり、1つの側面だけを追求することで、排除されるものもまたバガヴァーンです。

「彼らはただ私の道を歩んでいますが、そのことを知らないので、私を求めません。 もし知っていたら、小さなものに邪魔されたりはしないでしょう。」 

◎「スピリチュアルな道」は険しい道である必要はない

目的地に向かって旅をする人々は、その道中で、いくつかの事を楽しみますが、目的地を見失ったりません。

自分自身の知識も同じことが言えます。

スピリチュアルな道は、とても険しいものと言われますが、「スピリチュアル」を本当に理解するなら、険しいものではない事がわかります。

「あなたは、満ちている事の本質[ānanda]です」と、聞き続ける事のどこが険しのでしょう?

ただ、理解されねばならない事があるだけです。

そのスピリチュアルな道こそがānandaですから、その道中が喜ばしく、ゴールは喜びそのものです。

スピリチュアルな道は、最初は辛く、あとで喜びがあるが、物質的な道は最初に喜びがあり、後は辛いと時々言われますが、本当にそうでしょうか?

物質的な道は、最初も、後も、その途中も、いつも問題ではないでしょうか?

なぜなら、根本的な問題は何も解決していないのですから。

◎全ての物質はバガヴァーンのみ

物質的な道の途中で、何らかの喜びを手に入れるのは、ただ、至るところにバガヴァーンがいるからです。

バガヴァーンは、ある1つの場所にいるのではありません。

よく分析するなら、物質と言われる物などない事がわかります。

全ての物質は、ただバガヴァーン、バガヴァーンと離れて何もありません。

これらの識別は、知性[buddhi]によってなされます。

それは、二元性のbuddhi、分ける為の道具です。

buddhiが、スピリチュアルと平凡、高尚と世俗と分裂を生み出します。

基本的に、buddhiは二元性のものですから、絶えず二元性を創造しようとします。

実際、この二元性のbuddhiこそが、ジーヴァの本質なのです。

「人々は知っていようがいまいが、ひと時の喜びを手に入れる時、それはいつも私だけを手に入れている」

実際、神が、自分自身の本質の喜びなのに、神から何らかの小さな喜びを削り取り、その満足に寛ぐことが唯一の問題です。

自分自身が神で、喜びのまさに柱だと知らず、自分から離れた小さな部分に定住することが、悲劇だとクリシュナが言うのです。

悲劇は、神が人々を見放すことではなく、人々が自分自身が神だという真実を見ない事です。

「それでも、人々は私への道のりにいる。何も心配するな。人々は満足するまで、探すことを止めたりしないから、最後は私の所に辿り着く。満たされている本質に足りないものに誰も落ち着いたりしない。誰も私から離れてはいない。」

次の詩では、人は、すぐに結果が出ることに対して惹かれる傾向があるから、私に辿り着かないのだとクリシュナが説明します。