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ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章46番目の詩

तपस्विभ्योऽधिको योगी ज्ञानिभ्योऽपि मतोऽधिकः ।

कर्मिभ्यश्चाधिको योगी तस्माद्योगी भवार्जुन ॥६.४६॥

tapasvibhyo'dhiko yogī jñānibhyo'pi mato'dhikaḥ |

karmibhyaścādhiko yogī tasmādyogī bhavārjuna ||6.46||

ヨーギーは、瞑想のある生活をする人より、学者より、儀式をする人よりも優れているとみなされます。それ故、アルジュナよ、ヨーギーになりなさい

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「人がどうあるべきか」という観点から、最も卓越した人[adhika]がヨーギーだとクリシュナは定義し、次の詩でも繰り返します。

このヨーギーは、あらゆる種類の瞑想を行う人[tapasvī]より、定められたヴェーダの儀式を行う人[karmī]よりも優れていると説明されています。

両者は、共にモークシャを求める者[mumukṣu]で、ここで非難されているわけではありません。

ヨーギーになるという唯一の目的のために、それぞれのkarmaに従事している人ですが、pramāṇa-vivekaがないのです。

ヨーギーとは、ātmāをbrahmanとして熟考する人[dhyāna-yoga]、あるいは、この知識を既に成し遂げた、最も優れた人です。

その様なヨーギーは、確実に、これら2種類の人々よりも優れていると、述べられています。

◎学識だけでは、この世界観は得られない

tapasvīは、超能力などを身につけるのではなく、むしろ、tapasそのものが、自分自身を見抜く道具として、祈りとして、このヨーギーに解消されなければなりませんから、ヨーギーは、tapasvīよりも優れていると言うことができます。

同様に、ヨーギーは学者よりも優れています。

ここで言うjñānīは、ヴェーダを知っている人を指し、彼らはヴェーダを暗唱でき、歩く辞書のような人かもしれませんが、単なる学識だけでは、ヴェーダの宇宙観を得ていることにはなりません。

「全ての生き物にある、変わることのない等しさの世界観を得る」ために、この知識と、その追求への没頭がなければなりません。

この詩は、既に知識を得た人[yogī]に関する詩ですから、ここで話される学識とは、必然的にヴェーダーンタを省いたものですから、この詩のjñānīとは、yogīではありません。

シャンカラは解説で、ここでのjñānīは、特に、ヴェーダの最初の部分の[pūrva-mīmāṁsā-śāstra]世界観を持つ人[paṇḍita]と述べ、この点を明らかにしています。

これらの学者というのは、他のすべてのśāstraにおいて学識があるものの、vedānta-śāstraには学識がない人々のことです。

学んだことは、ありとあらゆるものの真実[vastu]が明確になった世界観、このヨーガの形の中に報われなければなりません。

この世界観を既に持つyogīは、学者よりも優れていると言われるのです。

◎だから、ヨーギーでいなさい

yogīは、また、儀式を行う人[karmī]よりも優れているとみなされます。

それゆえ、クリシュナは「yogīになりなさい、アルジュナよ」とここで言いました。

クリシュナが述べたことに基づけば、このyogīは、全てを手放し、瞑想に座る人[sannyāsī]のことです。

アルジュナにとってkarmaは、sannyāsīよりも良いと説明し、立ち上がって戦いなさいと、クリシュナは言いました。

しかし、ここで、yogī、つまりsannyāsīになりなさいと言うので、再度、アルジュナは混乱します。

◎最初は、カルマヨーギー、そしてヨーギーに

「ヨーギーになりなさい。アルジュナよ[yogī bhava arjuna]」

この言葉の意味は、karma-yogīになってから、yogīになれということです。

yogīとは、明確な世界観をしっかり確立した人[samyak-darśana-niṣṭhā]のことで、sarva-karma-sannyāsīを意味します。

「あなたは、役割を手放す必要はない。この戦いから逃げるなら、どんな点においても、うまくいくことはない。明確な世界観を持つyogīになるように努力しなさい、そのヨーギーになりなさい!」

『yogī』という言葉が出ると、あらゆる種類の考えが頭に浮かび、どのyogīになるべきかが問題になります。

誰もが最も卓越した人[śreṣṭha-puruṣa]になりたいので、クリシュナはtapasvī、paṇḍita、karmīと比較し、yogīはそれらよりも優れていると言い、最も卓越したyogīになるよう促しました。

ギーター第6章で、yogaを悲しみとの結合からの分離[duḥkha-saṃyoga-viyoga]と定義しています。

この定義の文脈と、クリシュナが以前に述べた全ての観点から理解される必要があります。

「変わることのない等しい世界観、自分自身を全ての生き物の中に見ること、そして、自分自身の中に全ての生き物を見ること」が、クリシュナが述べてきたことの全てです。

ここで議論されているyogīが、この世界観を持つ人であるということが、次の詩の中で明確にされます。