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ギーターヨーガ

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【ギーター】第4章12番目の詩

काङ्क्षन्तः कर्मणां सिद्धिं यजन्त इह देवताः ।

क्षिप्रं हि मानुषे लोके सिद्धिर्भवति कर्मजा ॥४.१२॥

kāṅkṣantaḥ karmaṇāṃ siddhiṃ yajanta iha devatāḥ |

kṣipraṃ hi mānuṣe loke siddhirbhavati karmajā ||4.12||

ここで(この世界において)、行いの結果を望んで、彼らは神々を祈ります

なぜなら、人間の世界において、行いから生まれる結果はとても早く返って来るからです

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「多くの人々が私の所へやって来た[4-10]」は、自分自身の正体がクリシュナである事を発見したと言う事ですが、なぜ全ての人々ではないのか?

クリシュナが、rāga-dveṣaを持つなら、他の誰かと変わりません。

◎どのように神を招き祈るのかはあなたの選択です

クリシュナはこの質問に対し、誰に対しても、何も拒否しないと答えます。

個人として、Īśvaraの創造物の、ほんの少しの物だけを求めるなら、それだけしか得られないでしょう。

偉大な帰依者でさえ、彼らが祈願する形で神の祝福を受けますから、神はあらゆる点で公平です。

これは、神を祈り呼びだすその形が、その人にとって神になるということです。

神をインドラ神として呼び求めるなら、インドラ神ですし、特定の行為の結果を与える者として呼び求めるなら、神はその統轄神[devatā]です。

神[Īśvara]は、個人のホロスコープに関連して、どんな惑星としても呼び求めることができます。

特定の位置にある特定の惑星は、その人にとって特定の問題や状況を示すことが分かっています。

ここでは、Īśvaraは惑星そのもの、つまりプラーラッブダ・カルマの統轄神[adhiṣṭhāna-devatā]として呼び求められます。

こういった全ての祈り懇願が可能なのは、どの様な目的でも神が祈り呼び出され得ますし、その祈り自体によって目的が満たされるという理由からのみです。

ヴェーダに関わりのない人々でさえ結果を得ます。

例えば、お金と権力にしか興味のない、徹底した物質主義者も、間違いなく結果を得ています。

また、ロシアや中国は、以前は宗教ありで、現在は宗教なしで生き残っています。

儀式や祈りは、彼らにとって何の意味もなく、ある理想が彼らの宗教です。

共産主義は、国家主義に他ならず、全ては国家に属し、個人に属するものは無く、全てが皆で共有されるべきものです。

その考え自体は素晴らしいのですが、それを強制するために、個人の自由が奪われます。

体制に反発する声を上げるなら、発言を完全に阻止されるか、他の人に声が届かない場所に拘置され、個人は全く重要視されません。

この特定のイデオロギーを持つ人々にとって、国家は神なのです。

もちろん、その様な人々は、それを神とは呼びませんが、これは彼らにとっての神なのです。

この様に、人々が神の置き場所を間違え、ムムクシュとなって、自由を求めないのは、この世界における即座の結果を超えて、見る事ができないからです。

部分的な、目先の結果を得るために、様々な統轄神たちを崇め祈ります[devatāḥ yajante]。

お金や、権力や、筋肉やらと、統轄神は何でもある事ができます[kāṅkṣantaḥ karmaṇāṃ siddhiṃ]。

人々は全体としてのパラメーシュワラを祈り懇願しません。

行い手の性質[kartṛtva]があるので、「何かの結果を得るために必要な事をする、一人の自立した人」 と認識しています。

人間だけが、この行い手の性質[kartṛtva]に基づいて、行いを選ぶ能力を持っています。

動物もデーヴァは、行い手の性質[kartṛtva]は無く、ただ、体験者の性質[bhoktṛtva]だけがあります。

◎人々は、すぐにかなう結果がほしい 

多くの若者は、両親や年長者から、後々より良い生活を送れるように、数年間頑張るように励まされても、より早く結果を求める気持ちから大学を卒業することができません。

人気で売れているミュージシャンのようになりたいと思い、大学に行こうとしません。

両親には、学校教育を受けずとも、お金を稼いだ人達のことを話します。

もちろん、教育を受けず、路上で落ちぶれている人達のことは言いません。

その代わりに、学校に行かずとも、お金持ちの女性と結婚し、たまたまショッピングモールが建設されることになったため、価値が急騰した土地を購入した叔父さんのことを引き合いに出します。

若者は、すぐに結果を求め勉強をしたがらないか、また実際は、そこまで興味がないのに、音楽や電子機器に興味があるふりをしているのかもしれません。

更には、バックパックを背負い、旅することだけを望む若者もいます。

手っ取り早い結果を求めて学業を中断した人々は、必要な規律を欠いているため、後になって勉強を再開するのが非常に難しいと感じるのです。

どの大学のキャンパスにも、40~50代で学位取得に苦労している人々がいて、これらの人々は明らかに教育の価値を理解しているのに、なぜ若者は勉強したがらないのでしょうか?

それは、これらの年配の人々がかつてそうであったように、若者も人生で本当に何を求めているのか分からずに、手っ取り早い結果や即座の成功を求めるからです。

つまり、人々がbhaktaであろうとなかろうと、お金や権力などの小さな神々を呼び求めるとは、こういうことを意味します。

お金を早く手に入れたいという欲求が、人を麻薬取引に手を染めさせたり、宝くじを買わせたりします。

もし人が祈るとしても、それは宝くじを買う時だけです。

「おお、神よ!どうかこの番号が当たりますように!」と。

◎神は本当に公平なのか?

ですから、クリシュナは「私の好き嫌いのために、これら全てが起こっていて私が不公平であると言いませんように。」 しかし、私たちが様々なタイプの人々の中に見る、あたかも不公平な違いがあることに基づくなら、(クリシュナの)この発言があるにもかかわらず疑問を持ち得ます。

クリシュナが、世界の作者[sṛṣṭi-kartā]であるなら、つまり、そこから世界が現れるのであれば、なぜ、階級制度などを作るのでしょうか?

どういった理由で、誰かの口には銀のスプーンを、他の人の口には金のスプーン、更に他の人の口にはプラチナのスプーン、さらに他の人の口には、プラスチックのスプーンどころか、スプーンがありません。

生まれながらにまったく口がない人もあります!

どうして神はこういう事をするのでしょう?

この様に質問しても、答えられないのなら、そもそも神について悩む必要などあるでしょうか?

「これは単に、彼は神であり、神はすべきことをする、誰も神に疑問を呈することはできない、という意味」と言うだけでは不十分です。

私は生まれつき体が不自由で、盲目で、耳も聞こえません。

私がこうして作られた以上、これらが辛い人生であることを神は知らないようですが、私はよく知っています!

もし神が、私の知っていることを知るのであれば、間違いなく私を違うように作ったでしょう。

そうしなかったということは、彼は単に欠陥のある製造者に過ぎないのではないでしょうか?

自動車を購入し、事業者がリコールするような問題があれば、社会に激震が起こりますが、製造業者として神は問われないように思われます。

「すみません。交換しますから、送り返してください。」と神は言いません。

反対に、その人はその生涯を通して、足や、目や、耳などを持たずに苦しまなくてはなりません。

せめて、電動の車椅子がすぐに手に入るアメリカにその人を置くことができたはずなのに、それさえもしません。

この様な格差を見て、神を正当化することなどできません。

どこが公平だというのでしょう?

両親がいて生まれる人もいれば、親が誰なのか、どこにいるのかさえ知らない人もいます。

なぜ赤ちゃんが養子に出されなければならないのでしょうか?

なぜ、子供は自分の両親と一緒にいられないのでしょうか?

両親がどこにいるのか分からないから、その子供は孤児だと言われます。

もし全ての人が神によって創造されたのなら、孤児は人々によって創造されたとは言えません。

またしても、神は何らかのサディストのようだと言わざるを得ません。

◎私たちは神に従わなければならないと神自身が言ったのでしょうか?

創造しただけに留まらず、更には「神に従え」と言っていると、誰かから聞きました。

せめて神が自ら来て直接私に伝えてくれるのであれば、それは意味があることだと認識できたであろうし、本来、神は皆にそうするべきなのです。

その代わりに、神に頼まれたという他の誰かが、私に伝えるよう頼まれたと言うのです。

本当に聞いてほしいなら、なぜ直接伝えに来ないのでしょう?

更には、また別の人がやって来て、神からのお告げは、もはや最新ではなく、これから聞くことが神からの最新の言葉だと告げます。

この種類の神は、実際、いないほうがマシですから、ここで取り上げられている問題は妥当です。

もし神が、ヴェーダにおける格差[brāhmaṇakṣatriyavaiśyaśūdra]を作ったのであれば、brāhmaṇaがより恵まれているように見えるため、神は間違いなく不公平であるに違いありません。

この様な話題を扱うために、クリシュナは、それら全てを作ったことを認め、同時に、私は非難されるべきでないと言います。