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ギーターヨーガ

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【ギーター】第7章1番目の詩

ギーターの幾つかの章の最後の詩は、脈絡がない様に見え、挿入の可能性がありますが、次の話の展開を作る役割を果たしていることが分かります。

例えば、第5章では、瞑想を紹介する詩があります。

第6章46番目の詩で「ですからヨーギーでありなさい[tasmāt yogī bhava]」とクリシュナが言い、瞑想のヨーガを要約していますが、47番目の詩で、次の話の展開の基礎が作られます。

これは、質問の種[praśna-bīja]で、明示的な質問ではありませんでした。

クリシュナは「私と同化し1つとなった考えによって[mad gatena antarātmanā]、私を祈る人は、ヨーギーの中で最も卓越したヨーギーです。」と言いました。

これは、2つの明白な質問の種となります。

1.ヨーギーはどのようにして、イーシュワラと同化し、1つになる考えを持つようになるのか?
2.神であるクリシュナの本質とは何か?

そのような疑問が生じるのは、これまで詳細に説明されてこなかったからです。

その疑問はバガヴァーンによって見抜かれ、第7章で答えられます。

「これが私の本質であり、いかにして、人が私と同化し1つになるかがこれです。[īdṛśaṁ madīyaṁ tattvam]」

◎タット パダの解説のはじまり

ギーター第1~6章は、mahā-vākya 'tat tvam asi' における「あなた[tvam]」、つまり個人[jīva]の意味が詳細に展開されました。

第7~12章では、「それ[tat]」、つまり全ての原因であるイーシュワラが主なテーマです。

これを解き明かしたいと願いバガヴァーンは言います。

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श्रीभगवानुवाच ।

मय्यासक्तमनाः पार्थ योगं युञ्जन्मदाश्रयः ।

असंशयं समग्रं मां यथा ज्ञास्यसि तच्छृणु ॥७.१॥

śrībhagavānuvāca |

mayyāsaktamanāḥ pārtha yogaṃ yuñjanmadāśrayaḥ |

asaṃśayaṃ samagraṃ māṃ yathā jñāsyasi tacchṛṇu ||7.1||

シュリー・バガヴァーンは言いました
パールタよ!ヨーガを選ぶことで、私に明け渡し、私に没頭した考えで
あなたが疑いなく、完全にわたしを知るであろう教えをどうか聞きなさい

この詩の「私に[mayi]」という言葉で、バガヴァーン自身が第7章と、続く章の主題であることを示唆しています。

私に没頭した考えを持つ人[mayi āsaktamanas]は、拠り所[āśraya]が私[mad]、つまり究極の神[parameśvara]」である人を指します。

シャンカラは解説で、私を拠り所とする人[madāśrayaḥ]の意味を次のように説明しています。人は、願望を達成するために、その目的に適した方法を選び、その手段が「āśraya」と呼ばれます。

例えば、毎日のアッグニホートラのような儀式は、天国へ行くためのプンニャを得るための「āśraya」ですから、その人は「agnihotrāśrayaアッグニホートラを拠り所とする者[agnihotra-āśraya]と呼ばれます。

さて、モークシャを達成するためには、どのような「āśraya」を持つべきでしょうか?

神は、「私を拠り所とする者[mad-āśraya]」、つまり「āśraya」がイーシュワラであるべきだと言います。

一般的に、人は何らかの目的のためにイーシュワラに頼りますが、ここでは、専心する目的がイーシュワラそのものであり、それが「私に没頭した考えを持つ人[mayi āsaktamanas]」という言葉で表現されています。

イーシュワラを拠り所とする者[īśvara-āśraya]」は、イーシュワラを求めます。

言い換えるなら、個であることから解放されたいのです。それがモークシャと呼ばれるものです。

シャンカラは続けます。他のすべての道具を放棄し、パラメーシュワラを得るために、パラメーシュワラのみを拠り所[āśraya]所とする人は、私に考えを没頭させる人[mayi āsakta-manas]です。

彼にとって道具は自分自身であるため、私だけに考えを専念している人です。

神が道具であり、神はゴールです。

これらの言葉はすべて、この章で説明されることになります。

◎パラメーシュワラを求めることにおいて、ゴールと手段は同じである

ここでその人は、全体の知識を求めています。

この探求がとても特殊なのは、全体とは異なる手段(考え)によって全体を得ることができるからです。

全体は常に全体であるため、それを得る唯一の手段は、「私は全体である」と知ること、他の方法は無いので、最終分析では、ゴールと手段は1つになります。

もし手段が、ゴールと別のものであれば、そのゴールは手段に見合った限定的なものです。

もし全体がゴールなら、唯一の手段はまさに全体、それ以外はあり得ないので、ここでは手段とゴールは存在しません。

それゆえ、賢者の道には足跡が残らないと言われるのです。

私たちは、知識というゴールに到達した賢者の足跡をたどりたいと願いますが、賢者の足跡をたどることは、空を飛ぶ鳥の足跡をたどるようなものだと言われています。

それは、手段とゴールは同じであるということです。

時間と永遠の間、有限と無限の間、部分と全体の間、ジーヴァとイーシュワラの間には、道筋などありません。

探求者は、パラメーシュワラの探求に、完全に没頭する人であると定義した後、クリシュナは続けます。

「疑いなく、完全に私をどのように知るか、それを聞きなさい[asaṁśayam samagram mām yathā jñāsyasi tat śṛṇu]」。

どんな手段で、どのような思考の道筋を辿れば、私を全体として認識できるのか、その手段について、どうか聞きなさい。

神の持つ栄光と共に、神を祈る⼈は誰もが、最終的に、特性の無い神を発⾒することが述べられます。

この詩は、第7章だけでなく、続く章でも語られる内容[upāsana]を紹介しています。

第7章から第12章は、パラメーシュワラについて扱います。