न मां कर्माणि लिम्पन्ति न मे कर्मफले स्पृहा ।
इति मां योऽभिजानाति कर्मभिर्न स बध्यते ॥४.१४॥
na māṃ karmāṇi limpanti na me karmaphale spṛhā |
iti māṃ yo'bhijānāti karmabhirna sa badhyate ||4.14||
行いの数々が私に影響したりしませんし、行いの結果に対しての切望がありません。私をこのようにはっきりと知る人は、行いに束縛されません。
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この詩で、クリシュナはバガヴァーンとして、自身に関する事実を明らかにし、それを個人の存在にも広げています。
バガヴァーンが、世界とそこに存在する全てを創造し、それを維持するために様々な行いをしているにも関わらず、それらの行いは、その性質がどうであれ、彼に影響を与えることはありません。
それ故クリシュナは「 行いは私に触れることはない[na māṃ karmāṇi limpanti]」と言います。
行いが、ジーヴァに対しプンニャ・パーパを作り出しても、彼には生じさせないため、スカ・ドゥッカを生じさせることもありません。
彼の行いが、彼に影響を与えないのは、「私は行い手である」という観念が無いからです。
一方、個人は、アートマーに行い手であるという観念を重ねて見てしまい、自分自身が全ての行いをしていると考えます。
そして、一度でも行い手という性質[kartṛtva]を持つと、体験者という性質[bhoktṛtva]も持ちます。
自分自身を行い手と見る人は、その人が行う全ての行為の責任を負わなければなりません。
しかし、実際には、自分自身はカルターではありません。
人がこの特別な事実を知っている時、その人はもはや自分をカルターだと見なくなりますから、カルマによって影響を受けません。
そうすると、ここで疑問が生じるかもしれません。
クリシュナが「私は行い手ではない」と知っていたなら、なぜカルマを行ったのか、何かを成し遂げたいという願望からなのか?
「いいえ」と彼は言います。
行いの結果に関して、彼にはいかなる願望も、渇望も、不足感もありません [na me karmaphale spṛhā]。
カルマを行う時、それは自分自身のために結果を得るためではありません。
自分自身は、より良くなる人などとは、見ていないのです。
◎自分自身を行い手では無いと知りなさい
イーシュワラにとっては真実でしょうが、自分のあらゆる行動に影響され、特定の結果を強く望む個人[jīva]にとってはどうなのか?
と言うかもしれませんが、これは、この詩が語るように、ただ無知のためです。
クリシュナは、彼をはっきりと知る者[yaḥ māṃ abhijānāti]は、次のように言うことができると述べます。
「行いは私に影響しない[na māṃ karmāṇi limpanti ]私はその結果を切望しない[na me karmaphale spṛhā]」
行いが、その人を縛りませんし、自分自身をより良くするために、その人は行いの結果を強く求めたりもしません。
jānātiは「知る」を意味し、abhijānātiは「はっきりと知る」という意味です。
ここで語られているのは、イーシュワラを自分自身としてはっきりと知る人です。
行い手ではない人[paramātmā]を知る、別の方法などありません。
ここで共通のアートマーとは、行いをせず、あらゆる属性から自由な存在、これがクリシュナが話しているアートマーですから、アートマーには、行い手の性質も、体験者の性質もありません。