एवं ज्ञात्वा कृतं कर्म पूर्वैरपि मुमुक्षुभिः ।
कुरु कर्मैव तस्मात्त्वं पूर्वैः पूर्वतरं कृतम् ॥४.१५॥
evaṃ jñātvā kṛtaṃ karma pūrvairapi mumukṣubhiḥ |
kuru karmaiva tasmāttvaṃ pūrvaiḥ pūrvataraṃ kṛtam ||4.15||
昔の探求者達によってですら、この様に(私を)知って、行いが為されました
それゆえ、まさに、古代の先人達が行った様に、行いに従事しなさい
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この詩でクリシュナは、再びアルジュナに、いかにしてこの知識を得るかを述べます。
「このように[evam](私を)知って[jñātvā]」は前の詩の引用で、アートマーは完璧[pūrṇa]で、全ての執着から自由[asaṅga]なので、どんな行いの結果にも、切望を持たないということです。
アートマーは、全ての行いから自由、すなわち行い手観念がありません。
アートマーの本質は、純粋な意識で、どのような意志の働きからも自由です。
意志はいつもアートマーに頼ってありますが、アートマーは全ての意志、全ての行い手観念から自立しています。
ですから、アートマーには、行いの結果[karma-phala]に関して、切望[tṛṣṇā]がありません。
行い手観念が無いので、アートマーとイーシュワラは、同一であると知る人に、行いは影響しません。
既に多くの人が、この方法で彼に到達したと、10番目の詩でクリシュナは指摘しました。
それは、自由を求める探究者[mumukṣu]だけで、全員だとは言いませんでした。
そして、一度でも知識を持つなら、もはや、行いが彼らに影響を与えたりしませんし、結果を熱望したりしません。
これがモークシャで、実際、他のモークシャはありません。
◎知識があるからといって行いを妨げられるわけではない
知識を得た先人達によってですら、行いが為されました[pūrvaiḥ karma kṛtam]。
ですから、アルジュナも同じようにするべきだと、クリシュナは告げます[tasmāt tvaṁ karmaiva kuru]。
これは、アルジュナがサンニャーサを選ぶべきではなく、自身の役割を果たすべきだということです。
シャンカラは、アルジュナはただ静かに座っているべきでも、サンニャーサを選ぶべきでもない[na tūṣṇīm āsanaṁ nāpi sannyāsaḥ kartavyaḥ]と明確に述べています。
以前の探求者たちが、既にこの知識を得ても、カルマをしたように、アルジュナもカルマをすべきです。
mumukṣuは、自由を望む人を指しますが、この詩ではjñānīもmumukṣuに含まれます。
まだ無知で、自由を望む人々[a-jñānī]は、知識を得るために、信頼[śraddhā]を持ち、カルマを行い、自由を得なさい。とクリシュナは言います。
シャンカラはここで、a-jñānīであるmumukṣuは、raga-dveṣa全てを清めるために、行いをすべきだと付け加えています。
例え、ātmanを完全に知っている人であっても、行為を行うべきです。
それは、antaḥkaraṇa-śuddhiのためではなく、世界を守るための祈りや、人々のお手本となる振る舞いをし、人々をダルマやモークシャへと導くため[loka-saṅgrahārtham]です。
その行いは、その人が自分自身を行い手と見なしませんから、jñānīに何ら影響を与えたりしません。
クリシュナは、「mumukṣu(探求者、または生きながらにして解き放たれた人[jīvanmukta])も、カルマはなされるべきである」と言います。
自分がajñānīかjñānīであるかは、アルジュナ自身が決めることができましたが、それでも彼は行いをすべきでした。
◎行いをしない事は決して自由に導かない
アルジュナが、カルマを行わないことで自由に至ると思っていないか、確認したいとクリシュナは考えています。
しかし同時に、カルマを行うことで、人は自由になったりしないと、明確に理解させる必要があります。
既に見てきたように、カルマはantaḥkaraṇa-śuddhiのためで、モークシャへの直接的な手段ではありません。
知識を自動的に受け入れるために、考えを準備を助ける、間接的な手段です。
ここでの要点は、カルマを行わないことは何の役にも立たないということです!
為されないカルマは、結果を生み出すことは出来ないため、決してあなたを助けません。
一方で、為されたカルマ[kṛtam karma]は、常に何らかの結果を生み出します。
それは、通常のカルマ・パラかantaḥkaraṇa-śuddhi、あるいはその両方です。
行いのない状態[naiṣkarmya]、すなわちモークシャは、カルマをしないことで得られるものではありません。
行いをしないことで、行いのない状態[naiṣkarmya]にはなり得ないのは、座るなど、何らかのことを行っているからです。
行いのない状態[naiṣkarmya]は、自己の本質[svarūpa]として理解されるべきです。
ですから、クリシュナはここでアルジュナに言います。
「私が行っている全てのカルマは、私に何の影響も与えない。私はそれらすべてに全く影響されない。」
イーシュワラであるクリシュナは、行いやその結果に全く影響されないため、偏りがありません。
個人のように特定の結果を望んだり、それによって人々に異なる態度を取ることはありません。
もしクリシュナが特定の結果(例えば、人々からの賞賛や愛)を望むなら、彼は自分を褒め称える人々だけを助け、そうでない人々には関心を示さないでしょう。
個人は「自分を気にかける人には気をかけるが、そうでない人には気をかけない」という偏りがありますが、神にはそのような問題がありません。
なぜなら、彼はどんな行為の結果に対しても、何の渇望も持っていないからです[na me karmaphale spṛhā]。
これらすべてから完全に自由です。
そして、アルジュナもイーシュワラを知ることで、そのようにしか見えなくなります。
ですから、クリシュナは言います。
「私をはっきりと知る人[ya mām abhijānati]は、このすべてのカルマの外にあり、それによって全く束縛されない。」
クリシュナは、多くの先人たちが、カルマを行うことによって、彼に到達したことを伝えることで、アルジュナもカルマを行うべきだと言っています。
カルマをしないことで、行いの無いことの本質[naiṣkarmya]、すなわちモークシャを得るなどと考え、混乱させたくなかったのです。
行いの無いこと[a-karma]の概念には、非常に多くの混乱があるため、クリシュナはここでkarmaとakarmaの真の意味を説明する新しいセクションを開始します。