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ギーターヨーガ

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【ギーター】第7章2番目の詩

ज्ञानं तेऽहं सविज्ञानमिदं वक्ष्याम्यशेषतः ।

यज्ज्ञात्वा नेह भूयोऽन्यज्ज्ञातव्यमवशिष्यते ॥७.२॥

jñānaṃ te'haṃ savijñānamidaṃ vakṣyāmyaśeṣataḥ |

yajjñātvā neha bhūyo'nyajjñātavyamavaśiṣyate ||7.2||

余すところなく、私はあなたに、直の知識と共にこの知識を教えるでしょう
これを知るなら、この世で知り残すことは何一つありません

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◎ヴィッニャーナがニャーナから区別される

jñānaと vijñānaが、同時に言及される時は、vijñānaがjñānaとは、少し異なる何かであることを意味します。

jñānaは、直の知識を意味することもありますが、クリシュナはvijñānaと共にjñānaと言いますから、jñānaはvijñānaよりも少し劣ります。

viは、独特に区別される[viśeṣa]という意味なので、vijñānaは直の知識、jñānaは間接的な知識です。

クリシュナは「私は、このjñānaをvijñānaと共にあなたに与えます」と言います。

この言葉の1つの意味は、あなたに同じ知識、同じヴィジョンを生み出す能力[prāmāṇya]があり、一度でも見るなら、あなたはvijñānaを得て、疑いや曖昧さは残りません。

もう1つの意味は、「この知識を、間接的ではなく、あなたにとって直なものとなるような方法で私は教えよう」です。

ここでも、この知識は、間接的な知識ではなく、直の知識としてのみ得られるものだと理解できます。

一般的には、parameśvaraを「計り知れない存在」として考えがちですから、parameśvaraの知識は、間接的なものとして理解されています。

「バガヴァーンよ、私はあなたが何であるのか、どこにいるのか知りません。ですから、私はあなたが何であれ、何度も敬礼します[yadṛśosi mahādeva tādṛśāya namo namaḥ ]」

この人は、神は存在すると認識していますが、神が何であるのかという結論を出そうとしません。

この祈りには、ある程度の信仰があるものの、同時に漠然とした曖昧さと疑念も残りますが、それが正しい祈りなのでしょう。

私達はイーシュワラについて結論を下しがちですから、安全策をとるのです。

「神はこういうものだ」と決めつけず、「あなたが必要とするなら、どんな性質も、資質も満たして下さい」と願うのです。

これはまるで手紙の宛名を「関係者各位」とするようなもので、手紙を受け取った側が「これは私宛てだ」と考える必要がある、という状況に似ています。

祈る人が「神はこんなもの」と限定しないことで、その祈りが、神にも届く可能性を秘めていて、その祈りを受け取った神は「これは私に向けられた祈りだ」と認識することによって、初めてその祈りが意味を持ちます。

しかし、ここではまったく逆で、クリシュナは、「īśvara-jñānaは、間接的[parōkṣa]である必要はない。それは直[aparōkṣa]でありうる」と言います。

イーシュワラの直の知識[aparōkṣa-jñāna]のみがモークシャです。

間接的な知識[parōkṣa-jñāna]は、祈りなどを捧げるのに役立ちますが、祈りの最終的な結果は、この直の知識[aparōkṣa-jñāna]、parameśvaraの直の知識です。

他のいかなる理解も、自分自身をparameśvaraから除外することで、真実ではないものに変更されてしまいます。

私を差し引いたparameśvaraは、単に別のan-ātmāで、ātmāではありません。

もしparameśvaraが、自分以外の存在であれば、彼はどこかに位置することになります。

ジーヴァと呼ばれる誰かが中心にいて、広大な空間のどこかに、中心から離れて存在するイーシュワラと呼ばれる別の人がいる、これは二元性です。

自分自身以外は全てanātmāで、ātmāだけが意識、気づいているものですから、anātmāは不活性で、気づいてないものです。

そのanātmāが、意識を持つ存在である自分自身を明かすことなどできません。

もしイーシュワラが私以外の存在なら、それは不活性なのに、それを全知[sarvajña]と呼んでしまうのは、単に口先だけの信仰です。

しかし、ここでクリシュナは「私はこの直の知識[aparōkṣa-jñāna]を、何も残すことなく完全に教えましょう」と言います。

◎知識の称賛― この1つの事を知り、全てが知られる

私達の注意を引いて、考えを完結させるために、クリシュナはこの知識を称賛します。

「これを知れば[yajjñātvā]、この世で[iha]、あるいはシャーストラにおいて、これ以上に[bhūyaḥ anyat]知られるべきことは[jñātavyam]、全く残りません[na avaśiṣyate]」

通常、1つの事を知っても、それだけではまだ他に知るべきことが常に残ります。

実際、その1つの中にも、知るべき分野はたくさんありますが、ここではただ1つの事を知るだけで、全てを知ることになる、その1つが、「私」だと彼は言います。

「私」が全てですから、私を知れば、全てを知ることになるのです。

「どうすれば全てを知ることができるの?私はほんの僅かなことしか知らないのに」という誰の疑問に、クリシュナは「知るに値する本当に価値あるもの[jñātavya vastu]などない」と言います。

これを知ってしまえば、知るに値するものは何も残らないのです。

この全世界で、ただ1つのものだけがsatyaであり、一度satyaを知れば、mithyāは自ずと明らかになります。

mithyāはsatyaですが、satyaはmithyāではありません。

ここで知るべきものとして認識されているものが、人生に違いをもたらします。

イーシュワラの本質[svarūpa]を知ることは、全てを知ること、そして、唯一存在するsatyaは、イーシュワラのsvarūpaであり、それは自分自身なのです。

だからこそ、その事実に対する無知を落とすことができるのです。

あなたの本質がsatyaで、自分自身で明らかな存在です。

アートマーを知ることは、全てを知ることです。

それを知るとは、全てが「私」であり、「私」は全てから自立していることを知ることです。

自分自身を他の全てと異なるものと捉えるなら、他の全てが私と対立し続けることに気づくでしょう。

全世界が、どうにかして乗り越えなければならない障害となるのです。

これが、人が世界を見る視点です。

そして、この世界に敵対する「私[aham]」は、生きとし生けるものの自分自身[sarva-ātmā]で、パラメーシュワラとして理解されるべきです。

クリシュナは、そのahamがparamātmāであること、すなわち「私」がすべてであることを証明しようとしています。

後に彼は私が全創造宇宙の源[brahman]、tat-pada-artha、そして、あなたがそのbrahmanです」と言うでしょう。

そして更に「自分自身として私を知る人は、私から分かれたものでは無い人です。彼はすべてを知っています」と述べます。