मनुष्याणां सहस्रेषु कश्चिद्यतति सिद्धये ।
यततामपि सिद्धानां कश्चिन्मां वेत्ति तत्त्वतः ॥७.३॥
manuṣyāṇāṃ sahasreṣu kaścidyatati siddhaye |
yatatāmapi siddhānāṃ kaścinmāṃ vetti tattvataḥ ||7.3||
何千人もの人々の中で、モークシャのために努力する人は稀です
努力する探求者の中でも、私を実際に知る人は稀です
◎この知識は、その結果という点で稀である
この知識はモークシャという並々ならぬ結果をもたらすため、得ることが難しいとシャンカラは言います。
その難しさは、この知識のまさにユニークさにあり、それこそが稀である理由です。
通常、知識そのものは目的ではなく、それは、後で得られるべき目的のために利用されます。
しかし、このモークシャの知識においては、それを一度知ってしまえば、もはや知るべきことも、得るべきものは何もありません。
つまり、これ以上、どんな puruṣārthaも持つ必要がなくなるのです。
モークシャを選択することは、ダルマ、アルタ、カーマ(他3つのpuruṣārtha)の結果がすべて含まれることを意味します。
なぜなら、モークシャを選ぶことで、全体を選んだことになるからです。
モークシャは自由を意味し、それはダルマ、アルタ、カーマの追求からの自由です。
モークシャが、これらの追求それぞれが目指す、本質的な充足、達成されるものすべてを含んでいるからです。
しかし、モークシャはこれらのいずれにも含まれず、また、3つすべてを合わせてもモークシャには及びません。
そして、この結果、すなわちモークシャは、まさに知識と同一なのです。
知識[jñāna]そのものが最終的な目的なのです。
この結果のユニークな性質ゆえに、この知識は非常に稀なものとなります。
◎得る事が難しいということから、この知識はまれである
この特定の知識[mokṣa]が稀であるのは、それが習得しにくいためでもあります。
どんな知識も、準備ができていないと難しく、準備ができていれば簡単です。
知識の性質上、それは難しい場合もあれば、簡単な場合もあります。
「簡単」という言葉ですら適切ではないかもしれません。
例えば、目を開けて花を見たとき、それは簡単でも難しくもありません。
必要なのは視力だけで、すぐにその知識は得られます。
ですから、もし人が準備できていれば、知識はシンプルなのです。
そうでなければ、そこまで単純ではありません。そして、この知識のための準備そのものが難しいのです。
そのため、この知識は「最も難しい[durlabhatara]」と呼ばれています!
「manushyānām sahasreṣu kaścid yatati siddhaye」という言葉を引用し、クリシュナはそれがどれほど難しいかを指摘しています。
「sahasreṣu manushyānām kaścid」は典型的なサンスクリット語の表現です。
英語には「one in a million(百万人に一人)」という同等の表現があります。
sahasreṣuは、何千もの中で、何千人もの人々の間でという意味です。
どのような知識を得るにも、アディカーリーが必要です。
この知識を得る資質のある人[adhikārī]は、全ての人類[manuṣya]です。
そして、この知識を得る能力を持つ何千もの人類の中で、ただ一人、その稀な者[kaścit]だけが、努力をします[yatati]。
その人が、モークシャのために努力するのです。
一般的にsiddhiは、成功を意味しますが、人間の生における成功とはモークシャですから、「 モークシャのために[siddhaye]」とクリシュナは言っているのです。
◎何千人の中で、ある一人の人がアートマーを求めます
私たちは皆、何かを求めて努力していますが、その多くは自分自身以外のもの(例えば、富、名声、快楽など)のためです。
しかし、本当に重要なのは、「自分が根本的に不幸なのか、それとも、ただそう思い込んでいるだけなのか」という問いに答えることです。
この「自分自身を知りたい」という願いがアートマ・イッチャー、これは、自分自身のために自分自身を探求する、特別な努力です。
ほとんどの人は、この「自分自身を知ること」が究極の自由につながる可能性に気づきません。
だからこそ、クリシュナは、多くの人の中で「ごく一部の稀な人だけが、真の自由[mokṣa]のために努力する」と述べています。
他者のためや表面的なもののための努力ではなく、「自分自身を知る」という努力こそが、最も稀で価値のあるものです。
◎探求者たちの中で、ある特定の人物だけが真実を知る
クリシュナは、「多くの探求者の中でも、本当に自分自身を知っている者はごく稀である」と述べています。
なぜなら、まだ到達していなくても、モークシャを目指して努力する人[yata]は、既に成功者[siddha]と見なされるからです。
第6章40番目の詩で「モークシャのために努力する人は良くない結末には行かない[na hi kalyāṇa kṛt kaści durgatim tāta gacchati]」と述べています。
これは、医学生を将来のDoctorと呼ぶようなもので、その道を歩み始めた時点で、すでに成功への道を確実に進んでいるのです。
しかし、その探求者[siddha]の中でも、自分自身を完全に理解している稀である人が、今まさにいます、とクリシュナは言います。
スピリチュアルな探求者には多くの種類がいますが、彼ら全員を「siddha」と呼ぶことはできません。
この知識を追求することに専念している者だけが「siddha」なのです
これには、adhikāritvaが必要だからです。
マラソンで多くの人がスタートしても、完走するのは一部のランナーだけであるのに似ています。
クリシュナがこれを語るのは、アルジュナを落胆させるためではなく、むしろこの知識がいかに重要で、究極の価値があるかを伝え、彼を鼓舞するためです。
◎クリシュナ神は、創造宇宙の2つの側面の源として彼自身を明かします
クリシュナ神は、世界の創造には2種類の根本的な原因[prakṛti]があると説明しています。
prakṛtiとは、何かを生み出す力や原因を意味しますが、クリシュナは自分自身が、この2つのprakṛtiの源であると述べています。
その2種類は、svarūpa-prakṛtiとsvabhāva-prakṛtiです。
◎svarūpa-prakṛti
1つのprakṛtiが、あらゆるものの原因であり、その真実、これがなければ何も存在しえません。
これをsvarūpa-prakṛti、またはparā prakṛtiと呼びます。
svarūpaとは、それがないと、そのものが成り立たない本質のことです。
例えば、氷の本質は「冷たさ」で、その冷たさを取り除けば、もはや氷ではないのと同じように、ātmmanは、その本質である意識を手放すことはできません。
意識は、ātmmanの単なる性質や、属性ではありません。
意識という性質を持つ他の人がいるのではなく、実際、「私」そのものが、存在意識の姿です。
したがって、意識はātmmanのsvarūpaなのです。
意識がātmāの本質であるという前提に基づくと、意識はsatyaであり、限りがありません[ananta]。
通常、私たちは存在するものを実在と考えますが、ここでは存在そのものが意識です。
この意識こそが唯一の実在であり、限りがありません[satyam jñānam anantam brahman]。
この意識が、あらゆるもののプラクルティであり、svarūpa-prakṛtiと呼ばれます。
◎svabhāva-prakṛti
微細な5つの要素と、粗大な5つの要素両方から成り立つものは、svabhāva-prakṛti、またはaparā prakṛtiと呼ばれます。
これは「原因[kāraṇa]」と「結果[kārya]」に分けられ、結果も原因から離れていないため、kārya-prakṛtiとも呼ばれます。
(スークシュマもストゥーラも現れた結果であり、それはマーヤーに頼ってあります)
感覚器官、思考、プラーナ、五大元素から成る肉体、創造されたもの、結合してできたものは全てkārya-prakṛtiです。
このkārya-prakṛtiは、マーヤー、アッヴャクタ、あるいはムーラ・プラクルティとも呼ばれます。
これは、創造宇宙全体が現れるためのウパーディであり、その上乗せ[upādhi]は、パラマートマーに対してです。
マーヤーは、創造されたものの中にあるのではなく、ブランマンにあります。
なぜなら、創造されたもの自体がミッテャーだからです。
ブランマンは、サット・チット・アーナンダであり、それこそがアートマーです。
このブランマンが、マーヤーと全創造物の依りどころ[āśraya]です。
ブランマンこそが、創造を可能にするparā-prakṛti、すなわちsvarūpa-prakṛtiです。
クリシュナ神はアルジュナに「あなたこそが、全創造宇宙の本当の姿[svarūpa]」と伝えます。
これは、アルジュナが、サット・チット・アーナンダのブランマンとして、全ての原因であることを意味します。
もし自分自身をジーヴァと見なすなら、永遠に個々の存在に留まり、イーシュワラになれたりしません。
しかし、クリシュナは、二種類のプラクルティを明らかにすることで、イーシュワラが全てであり、そのイーシュワラの本質こそが自分自身であると述べました。
「私」という言葉が指す真の意味を理解すべきなのです。