
कर्मण्यकर्म यः पश्येदकर्मणि च कर्म यः।
स बुद्धिमान् मनुष्येषु स युक्तः कृत्स्नकर्मकृत् ॥४.१८॥
karmaṇyakarma yaḥ paśyedakarmaṇi ca karma yaḥ|
sa buddhimān manuṣyeṣu sa yuktaḥ kṛtsnakarmakṛt ||4.18||
行いの中に行いが無い事を見ている人、そして、行いが無い中に行いを見ている人は、人間の中でも賢者であって、ヨーギーであって、しなければならない事を全て終えてしまった人です
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シャンカラは、行い[karma] と、 行いの無いことの本質[akarma]を理解するために、ギーターの詩に広範な解説を書いています。
たとえ知識を持つ人でもカルマとアカルマの本質について混乱しているため、アルジュナにその意味を解き明かすとシャンカラは述べ、それを知ることで疑い、サムサーラから解放されると伝えます。
この詩では、カルマは一般的な行為を指し、「すべきこと」と「してはいけないこと」の両方が含まれます。
例えば、人を助けることは、申し付けられた行い[vihita-karma]、人を傷つけることは禁じられた行い[nisiddha-karma]です。
聖典の命令や禁止はすべてカルマに含まれます。
一方、アカルマは単に何もしないことではなく、行いのまさに本質[svarūpa]です。
人が歩くのをやめても「じっと立つ」という行為をしているように、何らかの行為が伴います。
アカルマを「何もしないこと」と考えるのは、経済問題を解決するために単純に貨幣を増刷するようなもので、事態をより複雑にするだけです。
したがって、アカルマを理解することは、深く理解した上で初めて可能で、簡単なことではありません。
◎賢者を別の言葉で表現する
クリシュナは、一見すると精神的に混乱しているかのように見えるこの特殊な視点「行いの中に行いが無い事を見ている人、そして、行いが無い中に行いを見ている人」を持つ人を、賢者であると称賛します。
さらに、そのような賢者は、為さねばならないことを全てやり終えた人[kṛtsnakarmakṛt]であり、もはや「すべきこと」や「すべきでないこと」のリスト(カルマのリスト)を持たない自由な人であると述べます。
対照的に、一般人にとっての「すべきこと」と「すべきでないこと」のリストは、非常に長く、絶えず新しい項目が浮上してくるため、決して終わることがありません。
このリストの項目は満たすのが難しく、誰もがこの終わりのない状況に置かれています。
「最初は見えなかったものが、時間が経つにつれて徐々に明らかになる」という状況を、ポラロイドカメラのフィルムが現像される様子に例えられました。
クリシュナは、この「すべきこと」のリストの全ての項目をうまく満たしてしまった人こそが、特殊な視点を持つ賢者だと述べますが、どの様にしてこの特殊な視点を得るのでしょうか?
◎行いの中に、行いの無い事
ここでは、「行いの中に行いが無い事を見ている人、そして、行いが無い中に行いを見ている人」という表現に使われている「中に」という言葉が、通常の位置や場所を示す第7格[adhikaraṇam]ではありません。
例えば、「地面の上に座る」「手の中に本がある」とは異なり、行いと行いが無いことは、互いに場所や基盤となり得ません。
行いが無い事は、存在しないので、角のない人が「頭に角がある」と言えないように、行いの上に場所を占めること、すなわち存在しないものは、何かをすることの基盤にはなれたりしません。
「中に」は、「~に関して[viṣaya-saptamī]」という意味で解釈すべきだとここで述べています。
つまり、行いに関して、賢者は行いが無いことを見て、行いが無いことに関して、賢者は行いを見ます。
行為をする際、「私は行いをしている[aham karomi]」という観念が生まれます。
行為(例:歩くこと)には、思考、感覚器官[karaṇa]肉体[kārya]が関わり(※kāryaは「産物」という意味で、karaṇaは「道具」という意味)、これら全てが行為に巻き込まれています。
これが「私は行いをしている」と、私が言う理由です。
アートマーを意味する「私」もまた、行いの中に含まれています。
◎行いの結果は行い手に属する
私は、何らかの結果のために行いをし、その結果は、行い手である私にかえって来ますから、私は体験者です。
望ましい結果を得るために、私は行いをします。
このように、行いが、肉体・考え・感覚の集合体[kārya-karaṇa-saṅghāta]を巻き込み、また、アートマーである、私を巻き込む事を理解します。
「私は行い手である」「私は体験者である」と言う時、その行い手の性質や体験者の性質は、アートマーに集約されています。
「私[ātmā]は行い手か?あるいは、行い手ではないのか?」という疑問が起こりますが、アートマーがカルターなら、明らかに私は行い[karma]をし、その行いと結果は束縛のあるカルマとなります。
行為は、それを担うカルターがいないと不可能ですが、その担い手は行為に依存していません。
カルターは、行為に依存せず、行いをするか、しないか、あるいは異なる方法で行うか、という選択の自由があります。
この自立した行い手[kartā]は、サンスクリット語では主格[prathamā-kāraka]で表現されます。
行いに関わり、行いを可能にする要因はカーラカと呼ばれ、主に6種類あります(※サンスクリット語の「格[vibhakti]」は8種類ありますが、6番目の格はカーラカに含まれません。)
「行く」という行為を例にとり、6つのカーラカがサンスクリット語の格に対応することが説明されます。
●第1格[prathamā]行い手[kartā]ラーマが
●第2格[dvitīyā]行いの対象[karma]森へ
●第3格[tṛtīyā]道具/手段[karaṇa]馬車で
●第4格 [caturthī]目的[sampradhāna]父の望みに沿うべく
●第5格[pañcamī]出発点[apādāna]アヨーッデャーの町から
●第7格[saptamī]場所[adhikaraṇa]森の中に