
सञ्जय उवाच।
तं तथा कृपयाविष्टम् अश्रु-पूर्णाकुलेक्षणम्।
विषीदन्तम् इदं वाक्यम् उवाच मधु-सूदनः॥२.१
sañjaya uvāca
taṃ tathā kṛpayāviṣṭamaśrupūrṇākulekṣaṇam |
viṣīdantamidaṃ vākyamuvāca madhusūdanaḥ ||2.1||
サンジャヤが言いました。
同情の気持ちに圧倒されて、苦痛で涙をいっぱいためた目をして
悲しむ彼に(アルジュナに)、クリシュナが、このような言葉を話しました
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『バガヴァッド・ギーター』は、サンジャヤの三人称による報告と、アルジュナとクリシュナの一人称・二人称による対話という構造です。
第2章の始まりで、マドゥスーダナ(クリシュナ)は、アルジュナの話を辛抱強く聞いたのは、クリシュナが聞くことの重要性を理解し、アルジュナに全てを話させたためです。
クリシュナは、良い聞き手の模範として描かれており、直ちに忠告せず、まるまる一章(第1章)を聞き終えてから、初めて答えるべき時だと判断しました。
この姿勢は、セラピストが相手を話し続けさせ、多くを聞き、適切なタイミングで相槌を打つ態度になぞらえられています。
マドゥスーダナ(クリシュナ)の別名としての意味
マドゥスーダナという名前 マドゥという言葉はエゴを表します。
エゴ自体は問題はなく、問題のあるエゴは、うぬぼれ、思い上がり、卑下、卑屈などの主観的(価値を上乗せした)エゴです。
そのエゴ[アハンカーラ]を破壊する者を知ることで アハンカーラが破壊されます。
主観的なものの見方から、より客観的、知的なものの見方になります。
客観的に、知的に世界を見るという意味は、世界をあるがままに知るということです。
今、私達がバガヴァッド・ギーターの言葉を道具として「わたしとは何か」「世界とは何か」を分析することが、世界をあるがままに知るということです。
考えが知的に成長すればする程、バガヴァーンという生きた宇宙の姿が見えてきます。
そのバガヴァーンがマドゥスーダナと呼ばれます。
アルジュナは、哀れみ、同情、愛情に 圧倒されている様に描写されていますが、 ここには哀れみ以上のものがあります。
スヴァダルマ(すべきこと)における混乱がありました。
アルジュナの戦うべき理由は、皆から期待されていること、王子として国を守る義務であり、アータターイーを征伐することでした。
[ātatāyin]
1.人の国を奪う
2.人の財産を奪う
3.人の奥さんを奪う
4.放火
5.毒殺
6.武器を持たない人を後ろから襲うこと
戦わない理由は、先生や祖父に弓を向けること、ダルマを破壊する原因になることで、取り返しのつかない社会の混乱を招くことでした。
この2つ(ダルマとアダルマ)の間で混乱していました。
考えがある程度成熟した人であれば、ヴェーダーンタのヴィジョン「わたしとは何か?」を知らないのであれば、ダルマは相対的であるゆえに必ず行き詰ります。
