
क्लैब्यं मा स्म गमः पार्थ नैतत्त्वय्युपपद्यते ।
क्षुद्रं हृदयदौर्बल्यं त्यक्त्वोत्तिष्ठ परन्तप ॥२.३॥
klaibyaṃ mā sma gamaḥ pārtha naitattvayyupapadyate |
kṣudraṃ hṛdayadaurbalyaṃ tyaktvottiṣṭha parantapa ||2.3||
ああ、パールタよ、敵を滅ぼす者よ。女々しくしないで。
それは、あなたにはふさわしくありません。
卑しく弱虫な心をあきらめて、立ち上がりなさい[2-3]
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クリシュナは、アルジュナをパールタ(プリターの息子)と呼ぶことで、「今は子どものように振る舞う時ではない」と諭しました。
アルジュナは規律、熟練、忍耐の人として知られており、女々しい態度、男性でも女性でもない人[klaibya]ような考えは彼に全くふさわしくありませんでした。
彼は兵士であるどころか、ダルマを守るべきクシャットリヤであり、この義務は生まれながらに課せられています。
アルジュナは普通の王子ではなく、「模範となる人」であり、逃げ出すことは責任ある立場に全くふさわしくないとされます。
彼は王位に就くべき5人の王子の一人であり、義務を果たす誓いから逃れる道はありません。
クリシュナは、「こんな時に、感情的な弱さに打ちのめされて、あきらめることは卑しく、みすぼらしい」と述べ、アルジュナを敵を倒す人[parantapa]と呼びかけ、立ち上がって戦いに直面するよう言います。
アルジュナがなすべきこと(戦い)は、サンニャーシーでない限り、誰もがなすべきことをするという、後のカルマ・ヨーガの教えの準備(種)として位置づけられています。
すべき事をすること 心構えを変えることは ヨーガであり得ます。
行いがヨーガになるとは、アルタ・カーマの追求ではなく、自分が安心で、喜びであるというモークシャというゴールの為に考えを成熟させる生き方です。
ヨーガは辛い生き方ではなく、ご機嫌な生き方です。
社会のこと、自分のこと、この宇宙の成り立ちを理解することで、考えが成熟し、道具として扱えるようになります。
クリシュナの忠告は、アルジュナへの批判ではなく、アルジュナを悲しみへと導く独特な考えと、その考えを今変えるべきであるということを理解させるためでした。
自分自身を苦しめる習性としてある考え(行いをし、手に入れて叶えようとし、結局行いをし続ける考え)を、「わたしと幸せの意味はイコールであること」を知る生き方にシフトすべきだということです。
