【ギーター】第2章5~8番目の詩
2017/10/07
गुरूनहत्वा हि महानुभावान् श्रेयो भोक्तुं भैक्ष्यमपीह लोके।
gurūn ahatvā hi mahānubhāvān śreyo bhoktuṃ bhaikṣyam api iha loke |
हत्वार्थकामांस्तु गुरूनिहैव भुञ्जीय भोगान् रुधिरप्रदिग्धान् ॥२.५॥
hatvā artha kāmān tu gurūn iha eva bhuñjīya bhogān rudhirapradigdhān ||2.5||
偉大な師を殺すくらいなら
この世界で物乞いになった方がよい
もし 彼らを殺すなら
この世界で体験する安全や喜びは
血で染まったものとなりましょう[2-5]
–
バイクシャは、他者から食べ物を集めることです。
アルジュナは、戦争で戦うより
施しを集めて生きる
ライフスタイルに向かっていました。
学生[ブランマチャーリー]と
放棄した人[サンニャーシー]が
ビクシャー[施し物]をもらう事が出来ます。
サードゥ[sādhu]スワーミ[svāmi]
も隠退した人です。
アルジュナがギーターの中で
何度も尋ねた唯一の質問です。
18章でも、言い方を替え
「テャーガとサンニャーサの違いは何か?」
と尋ねます。
アルジュナは、サンニャーシーに
心惹かれていることを打ち明けました。
न चैतद्विद्मः कतरन्नो गरीयो यद्वा जयेम यदि वा नो जयेयुः ।
na ca etat vigmaḥ katarat naḥ garīyaḥ yad vā jayema yadi vā naḥ jayeyuḥ |
यानेव हत्वा न जिजीविषामस्तेऽवस्थिताः प्रमुखे धार्तराष्ट्राः ॥२.६॥
yān eva hatvā na jijīviṣāmas te avasthitāḥ pramukhe dhārtarāṣṭrāḥ ||2.6||
敵を滅ぼすか、滅ぼされるか
どちらが良いのか分かりません
目の前のドゥルタラーシュトラの息子達を滅ぼし
生きていたくないです[2-6]
–
アルジュナは親類縁者を滅ぼしてまで
生きたくないと言い
この戦いを「勝利がない」状況と呼び
興味を示しませんでした。
しかしクリシュナは、間違っていると言います。
कार्पण्यदोषोपहतस्वभावः पृच्छामि त्वां धर्मसम्मूढचेताः ।
kārpaṇyadoṣopahatasvabhāvaḥ pṛcchāmi tvāṃ dharmasammūḍhacetāḥ |
यच्छ्रेयः स्यान्निश्चितं ब्रूहि तन्मे शिष्यस्तेऽहं शाधि मां त्वां प्रपन्नम् ॥२.७॥
yat śreyaḥ syāt niścitaṃ brūhi tat me śiṣyas te ahaṃ śādhi māṃ tvāṃ prapannam ||2.7||
自分の義務に迷い
心の弱さゆえに打ちのめされました
どちらが確かに良いことか
あなたを拠り所とする私に教えを下さい
私はあなたの生徒です[2-7]
アルジュナは、自分を
欲深さに滅ぼされている[カールパンニャ]と見ました。
ブルハダーランニャコーパニシャドでは
ケチな人[クルパナ]は、わたしの知識を
知らずにこの世を去る人を
ケチな人と描写します。
人間の宝物は、外的な財産以上のものです。
何が真実で、何が真実でないか
何が正しくて、何が間違っているか
これらを識別すること[ヴィヴェーカ]です。
しかし「何が正しくて、間違っているか」
その事自体が問題になった時
その混乱している考えの人では
解決が出来ません。
アルジュナは、何が正しいか、間違っているか
それを判断するために
ダルマとアダルマ以上のことを
知らなければならないと悟ったのです。
「私はシッシャです」と言い
全人類にとって良いこと[シュレーヤス]を求めるなら
そのシュレーヤスの意味はたった1つ
モークシャです。
アルジュナは、解決できない悲しみこそが
人間の問題に他ならないと思い
戦いを続けることが出来ませんでした。
この様な状況に至る時
考えは自分自身に戻ります。
この時に「教え」が必要なのです。
「教え」がなければ
人は浮浪者になってしまいます。
アルジュナは自らを委ねました。
–
「生徒」を指す3つの言葉
・विद्यार्थि[ヴィッデャールティ]殆どクラスに参加しないタイプの生徒
・अन्तेवासी[アンテヴァーシー]先生と一緒に暮らすが、教えられていることが掴めないかもしれない生徒
・शिष्य[シッシャ]真に勉強する能力を持った人、教えを受けるにふさわしい生徒
–
न हि प्रपश्यामि ममापनुद्याद् यच्छोकमुच्छोषणमिन्द्रियाणाम् ।
na hi prapaśyāmi mama apanudyād yat śokam ucchoṣaṇam indriyāṇām |
अवाप्य भूमावसपत्नमृद्धं राज्यं सुराणामपि चाधिपत्यम् ॥२.८॥
avāpya bhūmau asapatnam ṛddhaṃ rājyaṃ surāṇām api ādhipatyam||2.8||
たとえ無敵の王国を持ち
天界の神々の統括者に君臨しても
感覚も枯れ朽ちる
この悲しみを取り除くことはできない[2-8]
–
寂しい人が寂しくなり
嫉妬の人が嫉妬し
悲しい人が悲しくなります。
これらの感情は、既に根底に
「問題がある」ことを示しています。
根底の悲しみは、時々現れます。
現われてない時は、いつも隠れたままあります。
悲しみの現れる合間に、喜びがあります。
悲しみとは、その人と同一のもののようです。
アルジュナは、無敵の王国を手に入れる事ですら
この悲しみを和らげないと言いました。