गुरूनहत्वा हि महानुभावान् श्रेयो भोक्तुं भैक्ष्यमपीह लोके।
हत्वार्थकामांस्तु गुरूनिहैव भुञ्जीय भोगान् रुधिरप्रदिग्धान् ॥२.५॥
gurūn ahatvā hi mahānubhāvān śreyo bhoktuṃ bhaikṣyam api iha loke |
hatvā artha kāmān tu gurūn iha eva bhuñjīya bhogān rudhirapradigdhān ||2.5||
偉大な師を殺すくらいなら この世界で物乞いになった方がよい
もし彼らを殺すなら この世界で体験する安全や喜びは 血で染まったものとなりましょう[2-5]
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バイクシャは、他者から食べ物を集めることです。
アルジュナは、戦争で戦うより 施しを集めて生きる ライフスタイルに向かっていました。
学生[ブランマチャーリー]と 放棄した人[サンニャーシー]が 、ビクシャー[施し物]をもらう事が出来ます。
サードゥ[sādhu]スワーミ[svāmi] も隠退した人です。
「カルマ・ヨーガとサンニャーサの生き方、どちらが良いですか?」
アルジュナがギーターの中で 何度も尋ねた唯一の質問です。
18章でも、言い方を替え 「テャーガとサンニャーサの違いは何か?」 と尋ねます。
アルジュナは、サンニャーシーに 心惹かれていることを打ち明けました。
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न चैतद्विद्मः कतरन्नो गरीयो यद्वा जयेम यदि वा नो जयेयुः ।
यानेव हत्वा न जिजीविषामस्तेऽवस्थिताः प्रमुखे धार्तराष्ट्राः ॥२.६॥
na ca etat vigmaḥ katarat naḥ garīyaḥ yad vā jayema yadi vā naḥ jayeyuḥ |
yān eva hatvā na jijīviṣāmas te avasthitāḥ pramukhe dhārtarāṣṭrāḥ ||2.6||
敵を滅ぼすか、滅ぼされるか どちらが良いのか分かりません
目の前のドゥルタラーシュトラの息子達を滅ぼし 生きていたくないです[2-6]
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アルジュナは親類縁者を滅ぼしてまで 生きたくないと言い この戦いを「勝利がない状況」と呼び 興味を示しませんでした。
しかしクリシュナは、間違っていると言います。
それは宇宙の秩序に沿っておらず、アルジュナが役割を放棄したとて、それを担う人が現れるだけなのです。
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कार्पण्यदोषोपहतस्वभावः पृच्छामि त्वां धर्मसम्मूढचेताः ।
यच्छ्रेयः स्यान्निश्चितं ब्रूहि तन्मे शिष्यस्तेऽहं शाधि मां त्वां प्रपन्नम् ॥२.७॥
kārpaṇyadoṣopahatasvabhāvaḥ pṛcchāmi tvāṃ dharmasammūḍhacetāḥ |
yat śreyaḥ syāt niścitaṃ brūhi tat me śiṣyas te ahaṃ śādhi māṃ tvāṃ prapannam ||2.7||
自分の義務に迷い 心の弱さゆえに打ちのめされました どちらが確かに良いことか
あなたを拠り所とする私に教えを下さい 私はあなたの生徒です[2-7]
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アルジュナは、自分を 欲深さに滅ぼされている[カールパンニャ]と見ました。
ブルハダーランニャコーパニシャドでは ケチな人[クルパナ]は、わたしの知識を知らずにこの世を去る人を ケチな人と描写します。
人間の宝物は、外的な財産以上のものです。
何が真実で、何が真実でないか、何が正しくて、何が間違っているか。
これらを識別すること[ヴィヴェーカ]です。
しかし「何が正しくて、間違っているか」 の問題は、 価値構造が混乱している考えの人には解決出来ません。
アルジュナは、何が正しいか、間違っているかを判断するために、ダルマとアダルマ以上のことを 知らなければならないと悟ったのです。
「私はシッシャです」と言い 、全人類にとって良いこと[シュレーヤス]を求めるなら、 それはモークシャだけです。
アルジュナは、解決できない悲しみが、人間の問題に他ならないと思い、戦うことが出来ませんでした。
この様な状況に至る時、考えは自分自身に戻ります。
この時に「教え」が必要で、「教え」がなければ人は世捨て人になってしまいます。
アルジュナは自らを委ねました。
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「生徒」を指す3つの言葉
・विद्यार्थि[ヴィッデャールティ]殆どクラスに参加しないタイプの生徒
・अन्तेवासी[アンテヴァーシー]先生と一緒に暮らすが、教えられていることが掴めないかもしれない生徒
・शिष्य[シッシャ]真に勉強する能力を持った人、教えを受けるにふさわしい生徒
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न हि प्रपश्यामि ममापनुद्याद् यच्छोकमुच्छोषणमिन्द्रियाणाम् ।
अवाप्य भूमावसपत्नमृद्धं राज्यं सुराणामपि चाधिपत्यम् ॥२.८॥
na hi prapaśyāmi mama apanudyād yat śokam ucchoṣaṇam indriyāṇām |
avāpya bhūmau asapatnam ṛddhaṃ rājyaṃ surāṇām api ādhipatyam||2.8||
たとえ無敵の王国を持ち 天界の神々の統括者に君臨しても
感覚も枯れ朽ちる この悲しみを取り除くことはできない[2-8]
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ノーベル賞を受賞した学者でさえ、全知ではないゆえに、私は取るに足らないというセンスはあります。
人は根本的に「私はこういう人(限りがある人)」という結論があるのです。
そうでなければ、個人の体を持って生まれてきません。
既に根底に「問題がある」ので、寂しい人が寂しくなり、 嫉妬の人が嫉妬し、 悲しい人が悲しくなります。
根底の悲しみ[ショーカ]は時々現れ、現われてない時は隠れたままあります。
悲しみの現れる合間に喜びがあり、喜びを求め没頭するなら、隠れたままの悲しみを忘れることができます。
悲しみとは、その人と同一のもののようです。
アルジュナは、無敵の王国を手に入れる事、天界の統治者になることですら、この悲しみを和らげないと言いました。