
कार्पण्यदोषोपहतस्वभावः पृच्छामि त्वां धर्मसम्मूढचेताः ।
यच्छ्रेयः स्यान्निश्चितं ब्रूहि तन्मे शिष्यस्तेऽहं शाधि मां त्वां प्रपन्नम् ॥२.७॥
kārpaṇyadoṣopahatasvabhāvaḥ pṛcchāmi tvāṃ dharmasammūḍhacetāḥ |
yat śreyaḥ syāt niścitaṃ brūhi tat me śiṣyas te ahaṃ śādhi māṃ tvāṃ prapannam ||2.7||
自分の義務に迷い 心の弱さゆえに打ちのめされました どちらが確かに良いことか
あなたを拠り所とする私に教えを下さい 私はあなたの生徒です[2-7]
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アルジュナは、自分の考えが欲深さに滅ぼされている[kārpaṇya]と見ました。
一般的なケチは、お金を持っているのに使わず、不安から貯め込み続ける人。
聖典の言うケチな人[kṛpaṇa]とは、『ブルハダーランニャコーパニシャド』によれば、「アートマーの知識」を得ることなくこの世を去る人のことです。
यो वा एतदक्षरं गार्ग्यविदित्वास्माल्लोकात्प्रैति स कृपणः ।
おお!ガールギーよ。この‘不変のものを知ることなしに、この世を去る人は、クルパナです。
人間の宝物は、外的な財産以上のものです。
アルジュナは、自身が「何が真実で、何が正しくないか[viveka]」という本当の人間の宝物を持たず、価値構造が混乱しているという点で、この精神的なケチさに圧倒されていると言いました。
アルジュナは、正しいか間違っているか[dharma-adharma]という問題は、その概念にとらわれている自分自身では解決できないと悟ります。
一時的な喜び[preyas]の結果であるダルマとアダルマを超えた、全ての人にとってよいこと[śreyas]、すなわちモークシャについて教えてくれるようクリシュナに求めました。
◎生徒、シッシャであるということは、どういうことか?
アルジュナは、「私はあなたの生徒[śiṣya]です。どうか教えてください」と言いました。
これまでクリシュナは御者を頼まれただけで、教えを請われたのは初めてでした。
アルジュナが「シッシャ」という言葉を使ったことで、クリシュナが教えを説くことになるのです。
シッシャの定義:
シッシャ[śiṣya]は、単に知識を求める者[vidyārthī]や、先生と一緒に暮らすが、教えられていることが掴めないかもしれない生徒[antevāsī]を超え、教えられるに適した、委ねる姿勢を持った生徒を意味します。
アルジュナは、解決できない悲しみが、人間の問題に他ならないと思い、戦うことが出来ませんでした。
この様な状況に至る時、考えは自分自身に戻ります。
この時に「教え」が必要で、「教え」がなければ人は世捨て人になってしまいます。
アルジュナは自らを委ねました。
