2017-10-15

【ギーター】第2章09番目の詩

2017/10/14

カト・ウパニシャドには

死神[ヤマ]の所に行き

3つの恩恵を授かった

少年ナチケータスの話があります。

1つ目の恩恵を、怒った父に使い

2つ目の恩恵を、天国を得る儀式を教えてくれるよう頼み

3つ目の恩恵は、アートマーはあるのか?知りたがりました。

なぜなら、ある人は「ある」と言い

ある人は「ない」と言うのですから。

ヤマは、人間には得られるものが

2つあるとナチケータスに言いました。

プレーヤスとシュレーヤスです。

アルタ、カーマ、ダルマ[プレーヤス]

自分自身の知識でもたらされる自由[シュレーヤス]

ナチケータスはシュレーヤスを求めました。

シュレーヤスという言葉は「良い」という意味で

比較上と、絶対的なシュレーヤスがあります。

比較上の良いこと、望ましいことは

場所[デーシャ]、時間[カーラ]、状況[ニミッタ]

で決められ、変化し続けます。

嘘をつかないこと[サッテャム]は、大切な価値ですが

誰かの為、傷つけることを避ける為

優しい嘘をつく事を選ぶかもしれません。

道徳と価値、ダルマシャーストラでさえも

TPOに応じ解釈されることが望ましいのです。

これが比較上のシュレーヤスです。

絶対的なシュレーヤスとは

完全な自己受容[モークシャ]です。

全ての人が、人生で求めるものは

この、自己受容された自分自身だけであると

ギーター全体を通して教えられます。

ドゥルヨーダナが王国を欲しかったのは

自己受容が欲しかったのです。

自分自身を受け入れられる人

そう自分を見たかったのです。

体が自己受容のベースであれば

私たちは問題を抱えます。

体は変化し、同じではないからです。

自分自身とは全体です。

真実は、自分自身以外何もありません。

これがシュレーヤスという言葉の意味で

シャーストラで展開される宇宙観です。

सञ्जय उवाच

sañjaya uvāca

एवमुक्त्वा हृषीकेशं गुडाकेशः परन्तपः ।

evam uktvā hṛṣīkeśaṃ guḍākeśaḥ parantapaḥ |

न योत्स्य इति गोविन्दमुक्त्वा तूष्णीं बभूव ह ॥२.९॥

na yotsye iti govindam uktvā tūṣṇīṃ babhūva ha ||2.9||

サンジャヤ言う

敵を焼き尽す者・眠りを克服した者(アルジュナ)は

このようにゴーヴィンダに話し

「私は戦いません」と黙り込みました[2-9]

ギーターは、悲しみを打ち砕く為の教え[モークシャ・シャーストラ]です。

「私は本当に悲しいのか?」と自問自答すれば

ギーターを学びます。

ギーターがその答えを教えるからです。

その答えは、考えた末に分かるものではなく

理解されるべきことです。

状況や、経験でもありません。

幸せと悲しみの経験は

「今、私は悲しい」「今、私は幸せ」

というように交互にあります。

幸せとはやってくるもので

悲しみが人間であるかのようです。

しかし、本当に自分自身とは悲しいものなのか?

悲しみとは何か?を理解するのです。

この洞察は、私は自分を正しく見ているか?

という疑問にまでさかのぼることができます。

実際、悲しみは

分裂していないあるがままの人

その人にしか起こりません。

アルジュナは

分裂していないあるがままの人となりました。

解決の可能性を見つけ

考えは、嵐の後の静けさの様でした。

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