【ギーター】第2章09番目の詩
2017/10/14
カト・ウパニシャドには
死神[ヤマ]の所に行き
3つの恩恵を授かった
少年ナチケータスの話があります。
1つ目の恩恵を、怒った父に使い
2つ目の恩恵を、天国を得る儀式を教えてくれるよう頼み
3つ目の恩恵は、アートマーはあるのか?知りたがりました。
なぜなら、ある人は「ある」と言い
ある人は「ない」と言うのですから。
ヤマは、人間には得られるものが
2つあるとナチケータスに言いました。
プレーヤスとシュレーヤスです。
アルタ、カーマ、ダルマ[プレーヤス]
自分自身の知識でもたらされる自由[シュレーヤス]
ナチケータスはシュレーヤスを求めました。
シュレーヤスという言葉は「良い」という意味で
比較上と、絶対的なシュレーヤスがあります。
比較上の良いこと、望ましいことは
場所[デーシャ]、時間[カーラ]、状況[ニミッタ]
で決められ、変化し続けます。
嘘をつかないこと[サッテャム]は、大切な価値ですが
誰かの為、傷つけることを避ける為
優しい嘘をつく事を選ぶかもしれません。
道徳と価値、ダルマシャーストラでさえも
TPOに応じ解釈されることが望ましいのです。
これが比較上のシュレーヤスです。
絶対的なシュレーヤスとは
完全な自己受容[モークシャ]です。
全ての人が、人生で求めるものは
この、自己受容された自分自身だけであると
ギーター全体を通して教えられます。
ドゥルヨーダナが王国を欲しかったのは
自己受容が欲しかったのです。
自分自身を受け入れられる人
そう自分を見たかったのです。
体が自己受容のベースであれば
私たちは問題を抱えます。
体は変化し、同じではないからです。
自分自身とは全体です。
真実は、自分自身以外何もありません。
これがシュレーヤスという言葉の意味で
シャーストラで展開される宇宙観です。
सञ्जय उवाच
sañjaya uvāca
एवमुक्त्वा हृषीकेशं गुडाकेशः परन्तपः ।
evam uktvā hṛṣīkeśaṃ guḍākeśaḥ parantapaḥ |
न योत्स्य इति गोविन्दमुक्त्वा तूष्णीं बभूव ह ॥२.९॥
na yotsye iti govindam uktvā tūṣṇīṃ babhūva ha ||2.9||
サンジャヤ言う
敵を焼き尽す者・眠りを克服した者(アルジュナ)は
このようにゴーヴィンダに話し
「私は戦いません」と黙り込みました[2-9]
–
ギーターは、悲しみを打ち砕く為の教え[モークシャ・シャーストラ]です。
「私は本当に悲しいのか?」と自問自答すれば
ギーターを学びます。
ギーターがその答えを教えるからです。
その答えは、考えた末に分かるものではなく
理解されるべきことです。
状況や、経験でもありません。
幸せと悲しみの経験は
「今、私は悲しい」「今、私は幸せ」
というように交互にあります。
幸せとはやってくるもので
悲しみが人間であるかのようです。
しかし、本当に自分自身とは悲しいものなのか?
悲しみとは何か?を理解するのです。
この洞察は、私は自分を正しく見ているか?
という疑問にまでさかのぼることができます。
実際、悲しみは
分裂していないあるがままの人
その人にしか起こりません。
アルジュナは
分裂していないあるがままの人となりました。
解決の可能性を見つけ
考えは、嵐の後の静けさの様でした。