सञ्जय उवाच
एवमुक्त्वा हृषीकेशं गुडाकेशः परन्तपः ।
न योत्स्य इति गोविन्दमुक्त्वा तूष्णीं बभूव ह ॥२.९॥
sañjaya uvāca
evam uktvā hṛṣīkeśaṃ guḍākeśaḥ parantapaḥ |
na yotsye iti govindam uktvā tūṣṇīṃ babhūva ha ||2.9||
サンジャヤが言いました
敵を焼き尽す者・眠りを克服した者(アルジュナ)は
この様にゴーヴィンダに話し「私は戦いません」と沈黙したのです[2-9]
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カト・ウパニシャドには、 死神[ヤマ]の所に行き 3つの恩恵を授かった 少年ナチケータスの話があります。
1つ目の恩恵は、怒りに駆られ息子に言った言葉や、したことへの後悔に父が苦しまないように使いました。
2つ目の恩恵は、多くの人が求める天国を得る儀式を教えてくれるよう頼みました。
3つ目の恩恵は、ある人は「ある」、 ある人は「ない」と言うアートマーについて知りたがりました。
ヤマは、人間には得られるものは2つあり、アルタ、カーマ、ダルマという行いで得られるもの[プレーヤス]と、自分自身の知識でもたらされる自由[シュレーヤス]があるとナチケータスに言い、ナチケータスはシュレーヤスを求めました。
シュレーヤスが教えられるなら、それは知識[ニャーナ]で、いつも同じ方法で教えられます。
ギーターは、悲しみを打ち砕く為の教えの体系[モークシャ・シャーストラ]、知識です。
知識は、個人的ではありえないものです。
「仕事」の意味。
「結婚」の意味。
「お金」の意味。
更には「神」の意味。
ロープを蛇に見てしまうように、自分自身の価値観を上乗せして見ている可能性があり、人それぞれ意味が違います。
ロープを蛇に見てしまうような個人的な意図は知識ではなく、ロープが知識です。
そしてロープとは本当は何か?
知識とは、誰も何もすることはできない、知識の対象に核心をなすものです。
「1+1=2」のように、知識は、人によって異なることはありません。
シュレーヤスという言葉は、 比較上と絶対的な意味で「良い」という意味があります。
比較上のシュレーヤスは、 場所[デーシャ]、時間[カーラ]、状況[ニミッタ] で決められ、変化し続けます。
嘘をつかないこと[サッテャム]は、大切な価値ですが 、誰かの為、傷つけることを避ける為に優しい嘘をつく事を選ぶかもしれません。
ダルマ・シャーストラでさえ、 TPOに応じ解釈されることが望ましいのです。
絶対的なシュレーヤスとは、完全な自己受容[モークシャ]です。
全ての人が、人生で求めるものは、この自己受容された自分自身だけである[パラマ・プルシャ・アルタ]とギーター全体を通して教えられますし、なぜそうなのかも教えます。
ドゥルヨーダナが王国を欲しかったのは、自分自身を受け入れられる人に自分を見たかったのです。
自己受容が欲しかったのです。
肉体が自己受容のベースであれば、 体は変化し、同じではないので私達は問題を抱えます。
自分自身とは全体で、真実は自分自身以外何もありません。
「わたし」という言葉の意味がシュレーヤスです。
これがシュレーヤスという言葉の意味で、シャーストラで展開される宇宙観です。
アルジュナがクリシュナにシュレーヤスを教えて欲しいと頼んだ時、アルジュナの中には嵐を鎮めた祈り、つまり委ねがありました。
アルジュナは、この悲しみ、この特殊な状況は自分では手に負えないことを知ったのです。
自分自身が、自分自身の考えに閉じ込められているのかもしれない、その探求に考えが向く人がムムクシュ(モークシャを求める人)です。
「私は本当に悲しい人なのか?」という答えは、望遠鏡の後ろにいる私を、望遠鏡を使っても明かせないように、考えの後ろにいるわたしを、考えでは明かせません。
私が考えた末に分かる様なものでは無いということです。
「私は本当に悲しい人なのか?」と疑問を持つ人が、バガヴァッド・ギーターと、それを教える先生に出会います。
実際、悲しみは、私が分裂していないあるがままの人であること無く起こりません。
全体から切り離された個人、それが私という問題からの自由を求め、アルジュナは分裂していないあるがままの人となりました。
解決の可能性を見つけて、クリシュナに委ね、ただ静かになりました。
何という静寂でしょう!!