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ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章11番目の詩

श्रीभगवानुवाच ।
śrībhagavān uvāca

अशोच्यानन्वशोचस्त्वं प्रज्ञावादांश्च भाषसे ।
aśocyān anvaśocas tvaṃ prajñāvādān ca bhāṣase |

गतासूनगतासूंश्च नानुशोचन्ति पण्डिताः ॥२.११॥
gatāsūn agatāsūn ca na anuśocanti paṇḍitāḥ ||2.11||

バガヴァーンが言いました
知恵に満ちた言葉を話してはいますが、あなたは悲しまれるべきでないものを悲しんでいます
賢者は、生きている者たちにも、息を引き取った者たちにも悲しみません

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ギーターは、悲しみ[śoka]を 取り除くシャーストラです。

悲しみとは、あらゆる不平不満を意味し、 落ち着きのなさも悲しみです。

自分の中心にある悲しみは 純粋に無知な子供です。

多くの人は、逃避したりして 安心を探しますが、アルジュナは、きっぱりと永遠に 悲しみを解決したかったのです。

「あなたは不必要に悲しんでいる」 という言葉は、私達にも向けられているのです。

知識を持つ人[paṇḍita]は、どんな悲しみにも嘆かないとアルジュナに言いました。

全てのヴェーダーンタで言われていることは「あなたは、あれです[tat tvam asi]」。

この言葉は「あなたは、あれと同等」ということで、「あれ」が示す意味は「神[イーシュワラ]」ですから、「tat tvam asi」は、「あなたはイーシュワラです」という意味です。

「あなた」と「イーシュワラ」という2つの言葉の意味が正しく理解されなければ、この等式は理解できませんから、ギーター6章までは「あなた」について、7~12章からはイーシュワラを扱います。

そして、最後の13~18章では、「あなた」と「イーシュワラ」がイコールであることが明かされます。

◎アルジュナの悲しみは、あなたの悲しみ

第1章の主題「アルジュナの悲しみ」とは個人の悲しみです。

普遍的、個人的、文化的な悲しみがあります。

この詩が「死」を扱うのは、人の最大の悲しみが「死」であり、またマハーバーラタは戦記である理由からです。

◎悲しみの原因

悲しみを引き起こす原因は2つ考えられます。

1.私[ātmā
2.私以外のもの[an-ātmā

私[ātmā]の本質が悲しみなら、悲しみの中でも幸せなので、問題は無いはずです。

例えば、落ち着きなく動き回ることが猿の本質で、そうであることに問題は無く、逆に静かな猿がいたら、それは問題です。

同様に、私の本質が本当に悲しみならば、悲しみであることに問題は無いはずなのです。

しかし、アルジュナにとっては悲しみが問題ですから、悲しみの原因が私[ātmā]か、出くわす世界[an-ātmā]かを分析する必要があるのでātmāとan-ātmāを分析します。

この詩は、私と私でないものを見極めること[ātmā-anātmā-vivkeka]

アルジュナの悲しみは、ātmāとan-ātmāの違いを知らないためでした。

◎4つの繋がり[anubandha-catuṣṭaya

ギーターの主題[विषय ]は『私と私でないものを見極めること[ātmā-anātmā-vivkeka]』

得られる結果[प्रयोजन ]は『あらゆる制限からの自由[mokṣa]』

対象者[अधिकारीन् ]は『自由への願望[mumukṣā]が1番に躍り出た人』

そして、その手段[संबन्ध ]が『ギーター・シャーストラ』です。

賢い人[paṇḍita]とは、ātmāとan-ātmāを知る人です。

ātmāを知るなら、当然an-ātmāも知っています。

私と私でないものを見極めること[ātmā-anātmā-vivkeka]があればpaṇḍitaの様に悲しみません。

ātmā
もanātmāも 悲しみの原因ではないのです。

◎この詩の実用主義的な視点

この詩は3つの視点から見ることができます。

1.実用主義者
2.聖典にシュラッダーがあり、前半のヴェーダに従う人[āstika
3.ギーターの宇宙観

実用主義者の観点から悲しみを分析すれば「どんな悲しみも収穫など無い」という結論です。

ヴェーダの教えに従う人[āstika]の観点から悲しみを見るなら、肉体を手放しても個人は続くので、悲しみは問題ではありません。

ギーターの宇宙観では、ātmāは肉体があっても無くても、永遠に「在る」もの。

移り変わるものから自由な存在であるので、悲しむ理由がない、という意識の視点です。

アルジュナは「悲しむな」と 忠告されたのではなく、悲しむ理由がない[a-śōcya]と言われました。

◎2つの側面を持つ教え方の方法論[pravṛttiとnivṛtti

ヴェーダの前半は、pravṛttiという形をとります。

精神的な成熟の道のりにおいて子供である私達に、人間の特権である「自由意志」を意識的に使うこと、より調和な生活基盤を教えます。

考え[mānasa]、言葉[vācika]、体[kāyika]という3つの側面を持つ行い[karma]を申し付けます。

小さな個人の考えでは、全法則を評価することなど出来ませんから、理解するまではそれに従います。

前半のヴェーダの主題はプラヴルッティ・アートマカ・シャーストラと呼ばれます。

前半のヴェーダの申し付けに従い、成熟した考えには、全法則の作者[イーシュワラ]が輝き、最終的に自分自身が永遠で、自由であることを発見します。

その発見のための道具、ヴェーダの後半[vedānta]がニヴルッティ・アートマカ・シャーストラと呼ばれます。

真実の私の上に投影される全ての観念が否定されるという意味でニヴルッティです。

悲しみとは、真実の私の上に投影された何か、であることを理解しなければなりません。

イーシュワラの慈悲は全てを取り除くので、ヴィシュヌ神はハリ、シヴァ神はハラと呼ばれ、この言葉は語源[hṛフル]から派生しています。

◎悲しみは道理にかなっていない

クリシュナは、この章の中で比較上でも、絶対的な観点からも悲しみの原因は無いということを立証していきます。

アルジュナは、「悲しむな!」と忠告されたのではありません。

その様に忠告されたなら、それは適切ではないのです。

「悲しみとは何か?」それを追求していくことで、理解するということを意味しているのです。

◎リアリティの2つの秩序

理由がない悲しみを抱いていると、ギーターが言うのは、私[ātmā]も私以外[an-ātmā]も悲しみの原因ではないということです。

満ちているという本質であるātmāは、ātmā以外のものに 影響され得ないことを明かします。

ロープに上乗せされる想像上の蛇は、ロープに影響を及ぼさない様に、波が水を破壊出来ないように、ātmāは、その上に投影されたどんなものにも影響されません。

悲しみとは、リアリティを認識できない為、ātmāの上に投影された何かです。

夢で野犬に追いかけられたとしても、目覚めると、その野犬に追いかけられることがない様に、同じリアリティに属しているものだけが関われます。

本質[svarūpa]である水は、波によって影響されません。

同様に、本質[svarūpa]であるātmāは、an-ātmāに影響されません。

この様に、アートマーを知ったならば、悲しむ理由は見つかりません。

悲しむ理由のないところに、悲しみを見ている、その勘違いを、聖典は否定しているのです。

現れた世界にも、悲しみの原因がないことは、この先の詩で更に深めていくことが出来ます。

世界[an-ātmā]も、私[ātmā]も悲しみを引き起こせませんから、「悲しむに値しない[a-śocyān]」と、否定の接頭語[nañ]で始まります。

一般的に、否定の言葉での始まりは良くないと思いますが、この詩は、否定の接頭語[nañ]から始まります。

その言葉を聞く準備が出来ていたアルジュナが、根底の悲しみの中にいましたから、「あなたは悲しむべきでない」という言葉が、とても重要な意味を持つのです。

ここでは、混乱からの悲しみを扱いますが、もちろん賢者にも悲しみは起こります。

賢者とて、死は悲しいものですが、賢者は、悲しみに巻き込まれたりしません。
 
考えから自由な自分自身に留まりながら、考えに現れては去る、悲しみを受け入れるのです。

ギーターは、主題である識別[vivkea]と、結果であるモークシャを繋ぐもので、何がわたし[ātmā]かを明らかにし、それによって人は、賢くなる事が出来ます。

ですから「悲しむ余地がない」と教えがはじまるのは、とても効力のあるはじまり方です。