श्रीभगवानुवाच ।
śrībhagavān uvāca
अशोच्यानन्वशोचस्त्वं प्रज्ञावादांश्च भाषसे ।
aśocyān anvaśocas tvaṃ prajñāvādān ca bhāṣase |
गतासूनगतासूंश्च नानुशोचन्ति पण्डिताः ॥२.११॥
gatāsūn agatāsūn ca na anuśocanti paṇḍitāḥ ||2.11||
バガヴァーンが言いました
あなたは博識なことを話しているが、悲しまれるべきでないことを悲しんでいる
知識を得た者は、生きている者にも 息を引き取った人のためにも悲しまない
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ギーターは、悲しみ[ショーカ]を 取り除くシャーストラです。
悲しみとは、あらゆる不平不満を意味し、 落ち着きのなさも悲しみです。
自分の中心にある悲しみは 純粋に無知な子供達です。
多くの人は、逃避したりして 安心を探したりしますが、アルジュナは、きっぱりと永遠に 悲しみを解決したかったのです。
「アルジュナ、あなたは不必要に悲しんでいる」 とクリシュナは言いました。
私達も肩ごしにクリシュナに話しかけられています。
知識を持つ人[パンディタ]は、どんな悲しみにも嘆かないとアルジュナに言いました。
全ヴェーダーンタ聖典で言われていることは「あなたは、あれです[タット トヴァン アシ]」。
この言葉は「あなたは、あれと同等」ということで、「あれ」が示す意味は「神[イーシュワラ]」ですから、「タット トヴァン アシ」は、「あなたはイーシュワラです」という意味です。
「あなた」と「イーシュワラ」という2つの言葉の意味が正しく理解されなければ、この等式は理解できませんから、ギーター6章までで「あなた」について、7章からはイーシュワラを扱います。
最後の6章では、「あなた」と「イーシュワラ」がイコールであることが明かされます。
◎アルジュナの悲しみは、あなたの悲しみ
第1章の主題「アルジュナの悲しみ」とは個人の悲しみです。
普遍的、個人的、文化的な悲しみがあります。
この詩が「死」を扱うのは、人の最大の悲しみが「死」であり、またマハーバーラタは戦記であるからです。
◎悲しみの原因
悲しみを引き起こす原因は2つ考えられます。
1つはわたし[アートマー]と、わたし以外のもの[アナートマー]です。
わたし[アートマー]の本質が悲しみなら、悲しみの中でも幸せなので、問題は無いはずです。
しかし、アルジュナにとっては悲しみが問題ですから、悲しみの原因がわたし[アートマー]か、出くわす世界[アナートマー]かを分析する必要があるのでアートマーとアナートマーを分析します。
賢い人[パンディタ]とは、アートマーとアナートマーを知る人です。
アートマーを知るなら、当然、アナートマーも知っています。
アルジュナの悲しみは、アートマーとアナートマーの違いを知らないためでした。
この詩は、私と私でないものを見極めること[アートマ・アナートマ・ヴィヴェーカ]
アルジュナの悲しみは、アートマーとアナートマーの違いを知らないためでした。
ギーターの主題[विषय ]は『わたしとわたしでないものを見極めること[アートマ・アナートマ・ヴィヴェーカ]』
得られる結果[प्रयोजन ]は『あらゆる制限からの自由[モークシャ]』
対象者[अधिकारीन् ]は『自由への願望[ムムクシャー]が1番に躍り出た人』
そして、その手段[संबन्ध ]が『ギーター・シャーストラ』です。
賢い人[パンディタ]とは、アートマーとアナートマーを知る人です。
アートマーを知るなら、当然アナートマーも知っています。
アルジュナの悲しみは、アートマーとアナートマーの違いを知らないためでした。
わたしとわたしでないものの見極め[アートマ・アナートマ・ヴィヴェーカ]があればパンディタの様に悲しみません。
アートマーもアナートマーも 悲しみの原因ではないのです。
◎この詩の実用主義的な視点
実用主義者の観点から悲しみを分析れば「どんな悲しみも収穫など無い」という結論です。
ヴェーダの教えに従う人[アースティカ]の観点から悲しみを見るなら、肉体を手放しても個人は続きますから、悲しみは問題ではありません。
ギーターの観点から見るなら、アルジュナは「悲しむな」と 忠告されたのではなく、悲しむ理由がない[ア・ショーチャ]と言われました。
ヴェーダの前半は、精神的な成熟の道のりにおいて子供である私達に、人間の特権である「自由意志」を意識的に使うこと、より調和な生活基盤を教えます。
考え[マーナサ]、言葉[ヴァーチカ]、体[カーイカ]という3つの側面を持つ行い[カルマ]を申し付けます。
小さな個人の考えでは、全法則を評価することなど出来ませんから、理解するまではそれに従います。
前半のヴェーダの主題はプラヴルッティ・アートマカ・シャーストラと呼ばれます。
前半のヴェーダの申し付けに従い、成熟した考えには、全法則の作者[イーシュワラ]が輝き、最終的に自分自身が永遠で、自由であることを発見します。
その発見のための道具、ヴェーダの後半[ヴェーダーンタ]がニヴルッティ・アートマカ・シャーストラと呼ばれます。
真実のわたしの上に投影される全ての観念が否定されるという意味でニヴルッティです。
悲しみとは、真実のわたしのの上に投影された何かです。
それが理解されなければなりません。
イーシュワラの慈悲は全てを取り除くので、ヴィシュヌ神はハリ、シヴァ神はハラと呼ばれ、この言葉は語源[hṛフル]から派生しています。
クリシュナは、この章の中で比較上でも、絶対的な観点からも悲しみの原因は無いということを立証していきます。
理由がない悲しみを抱いていると、ギーターが言うのは、私[アートマー]も私以外[アナートマー]も悲しみの原因ではないということです。
満ちているという本質であるアートマーは、アートマー以外のものに 影響され得ないことを明かします。
ロープに上乗せされる想像上の蛇は、ロープに影響を及ぼさない様に、波が水を破壊出来ないように、アートマーは、その上に投影されたどんなものにも影響されません。
悲しみとは、リアリティを認識できない為、アートマーの上に投影された何かです。
夢で野犬に追いかけられたとしても、目覚めると、その野犬に追いかけられることがない様に、同じリアリティに属しているものだけが関われます。
本質[スヴァルーパ]である水は、波によって影響されません。
同様に、本質[スヴァルーパ]であるアートマーは、アナートマーに影響されません。
ギーターは、主題である識別[ヴィヴェーカ]と、結果であるモークシャを繋ぐもので、何がわたし[アートマー]かを明らかにします。
それによって人は、賢くなる事が出来ます。
「悲しむ余地がない」と教えがはじまるのは、とても効力のあるはじまり方です。