2018-01-07

【ギーター】第2章16番目の詩①

2018/01/06

नासतो विद्यते भावो नाभावो विद्यते सतः ।

nāsato vidyate bhāvo nābhāvo vidyate sataḥ |

उभयोरपि दृष्टोऽन्तस्त्वनयोस्तत्त्वदर्शिभिः ॥२.१६॥

ubhayor api dṛṣṭo antas tu anayos tattvadarśibhiḥ ||2.16||

存在のないもの[アサット]はどんな存在もなく

存在[サット]は存在がないことなどない

これら2つの真実が、真実を見る人によって

まさに知られている[2-16]

サットとは、それ自身で存在するもの

アサットとは、自立して存在しないものです。

土で出来た壺があるとします。

「これは壺です」という時

壺は自立して存在しますか?

土がないと壺が存在しないなら

土が壺の原因[カーラナ]で

土と壺で言うなら、土がサットです。

原因があり、その存在を何かに頼っている

自立して存在できない壺はアサットです。

世界のどの様なものも

それ自身で存在しているものなどありません。

何故なら、それらは移り変わるもので

ただの形だけです。

ずっと同じではないし

同じであることができません。

壺は、土であることを知っています。

壺は、単に名前と形[ナーマ・ルーパ]です。

土なくして壺はありません。

そして、土は壺ではありません。

アサットは、あるリアリティの秩序があります。

壺は、土がないと存在できませんが

無いというわけでもありません。

存在しない[ア・バーヴァ]の為のもう1つの言葉

トゥッチャ・तुच्छ があります。

例えば、人間の角は存在しません。

人間も存在しますし

角も存在しますが

その2つを組み合わせた時

それは存在しません。

壺は、存在しないもの[トゥッチャ]でもありません。

サットでもなければ、トゥッチャでもない

そのリアリティがアサットです。

もう1つの言葉、同義語がミッティャーです。

壺が焼かれる前、土だけがあります。

かつて壺は土でしたが

それが壺になった時

土は、付け加えられた属性[グナ]が

あるということです。

この付け加えられた属性[グナ]が

creation 創造として意味されるもので

そこには創造の可能性があります。

しかし、土がなければ壺はありません。

更には、土をサットと呼ぶことも出来ません。

土も他のものに頼っていますから。

その存在を、何か他のものに頼っていないものが

サット、もしくはサッテャと言います。

原因自体も、他の原因に頼っているなら

それもまたアサットです。

私が壺を見る時、「壺の認識」があり

私は「壺がある」と言います。

その認識[ブッディ]は、移り変わります。

これをアサット・ブッディと呼びます。

変わらないものは、サット・ブッディと呼ばれます。

私が見ていた壺は、植木に置き換えられます。

私は「壺がある」と言いましたが

今は「植木がある」と言います。

これを分析するなら「ある」という認識は

決して無くならない事が分かります。

壺はアサットなので去ってしまいます。

そこにあるサットは、今植木と共にあります。

「植木の認識」が去る時

「葉っぱの認識」があります。

何であれ、残された認識がそこにあります。

残っているものが、ある[サット]

ある[サット]は、いつもあります。

この様に全ての知覚において

2つのブッディがあります。

アサット・ブッティとサット・ブッディです。

私が「青い壺」と言う時

「青い」も「壺」も同じものを示します。

青いものは壺で、壺は青いものです。

「音楽家のモーツアルトに会いました」

と言う時、モーツアルトと音楽家は同じものです。

名詞と形容詞があります。

「青い」は壺の形容詞です。

しかし、私が「壺がある」と言う時

「ある」が壺の形容詞のようですが

それは正しくありません。

壺が「ある」に対する形容詞です。

壺らしさが、「ある」を修飾します。

いつも2つのブッディがあります。

アサット・ブッティとサット・ブッディです。

考えの形の中にも「ある」はあります。

もし、考えが無くても

そこにあるのは、考えを差し引いた存在です。

何かを付け足しても、何かを差し引いても

存在[サット]は、影響されずいつもあります。

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