千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章16番目の詩

नासतो विद्यते भावो नाभावो विद्यते सतः ।

nāsato vidyate bhāvo nābhāvo vidyate sataḥ |

उभयोरपि दृष्टोऽन्तस्त्वनयोस्तत्त्वदर्शिभिः ॥२.१६॥

ubhayor api dṛṣṭo antas tu anayos tattvadarśibhiḥ ||2.16||

存在のないもの[アサット]はどんな存在もなく、 存在[サット]は存在がないことなどない

これら2つの真実が、真実を見る人によって まさに知られている[2-16]

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サットとは、それ自身で存在するもの、ア・サットとは、自立して存在しないものです。

土で出来た壺があるとします。

「これは壺です」という時 壺は自立して存在しますか?

土がないと壺が存在しないなら 土が壺の原因[カーラナ]で 土と壺で言うなら、土がサットです。

原因があり、その存在を何かに頼っている 自立して存在できない壺はアサットです。

世界のどの様なものも それ自身で存在しているものなどありません。

何故なら、それらは移り変わるもので 、ただの形だけです。

ずっと同じではないし、同じであることができません。

壺は、土、壺は、単に名前と形[ナーマ・ルーパ]です。

土なくして壺はあり得ず、そして、土は壺ではありません。

ア・サットは、あるリアリティの秩序があります。

壺は、土がないと存在できませんが、無いというわけでもありません。

存在しない[ア・バーヴァ]の為のもう1つの言葉 、トゥッチャ[तुच्छ]があります。

例えば、人間も 角も存在しますが、その2つを組み合わせたもの、人間の角は存在しません。

壺は、存在しないもの[トゥッチャ]でもありません。

サットでも、トゥッチャでもない、そのリアリティがア・サットで、同義語がミッティャーです。

壺が焼かれる前、土だけがあります。

かつて壺は土でしたが、それが壺になった時、土は、付け加えられた属性[グナ]がります。

この付け加えられた属性[グナ]が、創造( creation)として意味されるもので、そこには創造の可能性があります。

しかし、土がなければ壺はありません。

更に、土も他のものに頼っていますから、土をサットと呼ぶことも出来ません。

その存在を、何か他のものに頼っていないものが サット、もしくはサッテャと言います。

原因自体も、他の原因に頼っているなら、それもまたア・サットです。

私が壺を見る時、「壺の認識」があり、私は「壺がある」と言います。

壺の認識[ブッディ]は、移り変わり、これをア・サット・ブッディと呼びます。

変わらないものは、サット・ブッディと呼ばれます。

私が見ていた壺は、植木に置き換えられます。

私は「壺がある」と言いましたが 今は「植木がある」と言います。

これを分析するなら「ある」という認識は、決して無くならない事が分かります。

壺はア・サットなので去ってしまい、今植木と共にサットはあります。

「植木の認識」が去る時 「葉っぱの認識」があります。

何であれ、残された認識がそこにあります。

残っているものが、ある[サット]、 ある[サット]はいつもあります。

この様に全ての知覚において、 ア・サット・ブッティとサット・ブッディという2つのブッディがあります。

私が「青い壺」と言う時、「青い」も「壺」も同じものを示します。

青いものは壺で、壺は青いものです。

「音楽家のモーツアルトに会いました」 と言う時、モーツアルトと音楽家は同じものです。

名詞と形容詞があり、「青い」は壺の形容詞です。

しかし、私が「壺がある」と言う時 「ある」が壺の形容詞のようですが、それは正しくありません。

壺が「ある」に対する形容詞で、壺らしさが、「ある」を修飾します。

 ア・サット・ブッティとサット・ブッディ、いつも2つのブッディがあります。

考えの形の中にも「ある」はあります。

もし、考えが無くても そこにあるのは、考えを差し引いた存在です。

何かを付け足しても、何かを差し引いても 存在[サット]は、影響されずいつもあります。

壺が壊れ、壺の認識も無くなってしまう時、ある認識[サット・ブッディ]も無くなりますか?

壺が壊れても、名前や形[ナーマ・ルーパ]は 無くなりますが、サット・ブッディは無くなりません。

壺が無くなっても、植木があります。

ただ属性だけが変わりました。

サット・ブッディは、壺に形容されていましたが 今は、植木に形容されています。

人間の角は、存在しないもの[トゥッチャ]でした。

「人間の角がある」は、間違いで 、正しくは「人間の角がない」です。

’’無いがある’’のですから、サット・ブッディはどんな風にも変化しません。

サット・ブッディ、つまりアートマーであるサットは 熟睡中もそこにあります。

それが、私達が睡眠を体験したい理由です。

サット・ブッディは、夢の中にもあります。

このリアリティの秩序が違うサット・ブッディとアサット・ブッディが、どの様にして組み合わせがあり得るのでしょう?

壺など形容される名詞がない時も、何も問題なく結びつく事ができます。

例えば、砂漠の蜃気楼で、水があろうとなかろうと、水があると想像するだけで「水がある」と言います。

また1本のロープに投影された間違いの蛇にも、本物のロープにも、どんな物にもサット・ブッディが、アサット・ブッディを支えています。

サット・ブッディの対象物は、アートマーで、サットを装っています。

つまり、サットにとって無い[ア・バーヴァ]は有りません[サタハ アバーヴァハ ナ ヴィッデャテー]。

これに基づき、体[デーハ]を見るなら、体[デーハ]はアサットです。

悲しみの原因はありません。

「考えがある」と言う時、あるが、意識[アートマー]です。

考えは、意識の付帯的なもので、考えは名前と形[ナーマ・ルーパ]で、外側に対象を持つ考えは、知覚と呼ばれます。

知覚の範囲を超えるなら、それは推理、イマジネーション、または記憶です。

それが何であれ、考えがあります。

名前と形に条件付けされた意識に他ならないのです。

ナーマ・ルーパが無いなら 「ある」のは、変わらず、意識、本質[サット]と、本質でない[アサット]。

これら両方の本質的な在り方が、サットはサットとして、 アサットはアサットとして 真実を知る人々によって見られています。

真実[タットヴァ]という言葉のタットとは、全ての名前、全てとはブランマンです。

その名前をタットとし、その在り方がタットヴァ、つまりブランマンの在り方そのものです。