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ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章16番目の詩①

नासतो विद्यते भावो नाभावो विद्यते सतः ।

nāsato vidyate bhāvo nābhāvo vidyate sataḥ |

उभयोरपि दृष्टोऽन्तस्त्वनयोस्तत्त्वदर्शिभिः ॥२.१६॥

ubhayor api dṛṣṭo antas tu anayos tattvadarśibhiḥ ||2.16||

存在のないもの[asat]はどんな存在もなく、 存在[sat]は存在がないことなどない

これら2つの真実が、真実を見る人によって まさに知られている[2-16]

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この詩は、satasatという、2つの概念を通して、存在の究極的な真実を解き明かしています。

これはクリシュナが説いた重要な教えで、その核心は、astには存在がなく、satには存在がないことは決してない、という点にあります。

asat は、独立して存在しないもの、つまり、その存在を他の何かに依存しているものを指します。

例えば、寒さや暑さといった感覚は、知覚といった他の要素に依存して初めて認識されるため、独立した存在ではありません。

また、壺は土という原因[kāraṇa]に頼って存在するため、壺そのものが独立した実在を持つわけではありません。

シャンカラも、世界に存在するあらゆるものは、その原因に依存しており、常に変化し続ける[abhicarati]単に形[vikāra]に過ぎないと説明しています。

壺は土の形に過ぎず、土自体が壺なのではなく、土がなければ壺は存在しません。

時間によって限定され、変化し続けるものは、すべてasatに分類されます。

一方で satは、決して変わらないもの、常に存在し、否定されることがないものです。

asatがその存在を享受しない(存在がない)のに対し、satは常に存在します。

この詩は、satもasatも、私たちに悲しみをもたらすことはないと結論付けています。

asatはそれ自体で存在しないため、悲しみの原因にはなりえません。

そして、ヴェーダの視点では、私はsatであり、他のあらゆるものはasatです。

satである私は、それ自体が悲しみの原因となることはありません。

すべての問題は、satとasatの間の混同から生じるとされています。

asatには存在[bhāva]がない、つまり、それは過去、現在、未来の3つの時間を通して存在するもの[bhāva]ではありえません。

bhāvaは「存在」を意味し、存在するものはbhāvaであり、存在しないものはabhāvaです。

存在と存在がないことの分析

「全く存在しないもの」を指す言葉がtuccha、具体例として「人間の角」が挙げられています。

角も人間もそれぞれは存在しますが、両者を組み合わせた「人間の角」は現実には存在しません。

このようなものは、文字通り「存在しない」と断言できるものです。

現代のギーターの解釈では、asatをtucchaと同じ意味で捉えがちですが、これは違います。

なぜなら、存在がないものは存在がありませんと言う必要がありませんから。

この詩におけるasatは、tucchaとは異なり、asatはリアリティの秩序を持ちます。

satでも tucchaでもない、第三の存在しない種類を指します。

例えば、感覚器官やそれらが捉える対象は、tucchのように全く存在しないとは言えません。

目が見えなかったら感覚器官とは言えませんが、目自体は存在し、形を捉えることができます。

しかし、これらが独立して存在しているsatかというと、そうではありません。

感覚器官は、それらが捉える対象がなければ機能せず、また対象も感覚器官がなければ認識されません。

つまり、一方の存在がもう一方の存在に依存しているのです。

この依存関係にあるものは、全て、何にも頼らずそれ自身で存在するsatに依存しています。

感覚器官やそれらが捉える対象、そして喜びや苦しみといった反応は確かに存在しますが、それらは独立した存在ではありません。

したがって、全く存在しないtucchaでもなく、独立して存在するsatでもない、この中間的なもののためにasatという言葉があります。

asatのもう一つの同義語はmithyāです。

asat、またはmithyāは、独立した存在を持たず、その存在をサトに依存しているものを意味します。

satが存在するからこそ、asatも存在し得るのです。

これは、壺が土に頼って存在するように、asatもsatから離れては存在できません。

物は独立して存在しない

壺を例に説明されるように、壺はもともと土であり、焼かれる前も土です。

壺になった後も、それは「壺の形をした土」に過ぎません。

壺という「創造」は、土に「壺の形」という付け加えられた属性[guṇa]です。

土がなければ壺は存在しないため、壺は土に依存しています。

私たちがこの世界で目にするものはすべて、常に形[rūpa]とそれに付随する名前[nāma]であり、常にvastuに依存しています。

特定の形はasatと呼ばれ、それは、その物の特性を持っていますが、それ自身では存在[bhāva]を持ちません。

映画のフレームのように絶えず変化しており、それが動きとして認識されます。

流れる川の水も常に新しく、同じ水を得ることはないように、私たちが得る知覚はすべて時間によって制約され、見せかけの本質を持っています。

これらは「まるでそこに存在する」ように見えますが、常に変化し続けているため、真に存在しているわけではありません。

シャツはその原因である生地に依存して存在します。

生地がなければシャツは作れませんし、材料なしに想像することすらできません。

このように、独立して存在しないものは、すべてasatと呼ばれます。

satは物がその存在を頼っているものであり、シャツは生地というbhāvaに依存しているため、独立した存在の地位を持っていません。

生地を取り除けば、シャツという物も存在しないのです。

しかし、シャツの原因である生地も、他のものに依存しています。

したがって、単に「原因」というだけで、それがsatであるとは限りません。

真のsatまたは satyaは、それ自身の栄光によって存在し、その存在を他の何にも依存しないものを指します。

原因となるものも、その原因に依存している限り、それらもまたasatです。

なぜ、私達はアサトの中にサトを見るのか?

私たちが世界をリアル[sat]だと感じるのは、あらゆる認識[buddhi]には2つの側面があるからです。

1つは対象そのものの認識[物buddhi]、もう1つは「あるという認識[sat-buddhi]」です。

問題は、私たちが移り変わる対象の認識[asat-buddhi]を、「ある」として捉えてしまう混乱にあります。

この混乱が、喜びや苦しみ[sukha-duḥkha]につながるのです。

例えば、壺を見たとき、「壺がある」という認識が生まれます。

この壺-buddhiは、映画のコマのように常に移り変わるため、asat-buddhiと呼ばれます。

一方、変わらない「あるという認識」 はsat-buddhiです。

壺が木に置き換わったとしても、「壺がある」から「木がある」に変わるだけで、「あるという認識」自体は消えません。

壺はasatなので移り変わりますが、常にそこにあるsatは、今度は木と共にあるのです。

木が枝に、枝が葉に、葉が葉緑素に、葉緑素が粒子に変わっても、最終的に残る「あるという認識」は決してなくなりません。

この残るものが「ある[sat]」という認識です。

これは常に存在し、決して変わらないためsatと呼ばれ、一方、その認識が移り変わるものはasatと呼ばれます。

私たちはasatを毎回異なるものとして認識するからです。

したがって、全ての知覚には、常に変化する「物-buddhi」と、決して変わらない「ある-buddhi」の2つが存在します。

「青い壺」という表現では、「青い」は壺の形容詞として壺を修飾します。

しかし「存在する壺」あるいは「これは壺である」と言う時、「存在」が壺の形容詞と考えるのは誤りです。

そうではなく、壺が「存在」に対する形容詞であり、「壺らしさ」が「存在(土)」を修飾しているのです。

「壺がある」という時、そこには「ある認識[sat-buddhi]」と「壺の認識[asat-buddhi]」の2つの認識があります。

物buddhiだけが移り変わり、sat-buddhiは、壺や木、人、体など、どのような形の中にも常に存在します。

「ある」は思考の形の中にもあります。

思考がなければ、そこにあるのは、思考を超えた純粋な存在です。

身体や世界を超えたところに、真の存在[sat]があります。

この存在[sat]は、何が付け加えられようと、何が差し引かれようと、一切影響されることなく、常にそこにあり続けるのです。

◎「ある」という認識はいつもとどまる

sat-buddhそのものは決して変わりませんが、条件付けられる方が変化を請け負います。

壺は壊れても、「壺があったが、今はもうない」というように、その認識[ghaṭa-buddhi]はなくなります。

しかし、「ある認識[sat-buddhi]」までなくなったりしません。

私たちは「壊れた壺がある」と言ったり、壺がなくなった場所には「何か他のものがある」と言ったりします。

つまり、特定の名前と形[nāma-rūpa]によって条件付けられていたasat-buddhiがなくなっただけで、sat-buddhi自体は常に存在し続けます。

sat-buddhiは、壺の形や木の形など、様々なnāma-rūpaによって一時的に条件付けられます。

壺が壊れても、そのnāma-rūpaはなくなりますが、sat-buddhiは「壊れた壺がある」という形で存在し続けます。

asatだけが変わり続けますが、その「ある」という存在は決して消えません。

この「ある」の不変性を理解できなければ、私たちは自分自身[ātmā]、つまりsat-vastuが「ゼロである」と誤解してしまう可能性があるのです。

ātmāだけが存在し、他のすべてのものは、そのsat-buddhiの単なる付加であるnāma-rūpaに過ぎません。

この「付加」は、土に壺の形が付加されても、土そのものに変化がないように、sat-buddhiに何の変化ももたらしません。

これがヴェーダーンタのヴィジョンです。

sat-bddhiは、常に様々な属性によって「まるで」条件付けられているように見えます。

木の中に「ある」、壺の中に「ある」といった具合です。

移り変わるものはasat(mithyā)ですが、satは常に同じにとどまります。

では、そのsatとは何でしょうか?

sat-buddhiとは、存在・意識[sat-cit]です。

存在は意識です。

意識、sat-buddhiは、常に知識の形で何かとつながり、それを明らかにします。

壺が存在し、壺がなくなれば木が存在する。

すべての物がなくなったとしても、「私がある[aham asmi]」という認識は残ります。

この「私がいる」という存在こそが、究極のsatです。

◎2つの考えの間の意識

シャンカラは、2つの思考の間にある意識に注目します。

たとえ思考が途切れても、意識は常に存在し続けます。

意識が存在するために、すべてのものが消え去る必要はありません。

何かが現れても、すべてが消え去っても、意識は常に「ある」のです。

この唯一の存在であるsatこそが意識です。

「ポットがある」という認識は、ポットが壊れれば消滅するため、ポットと同様にmityāではないかという反論があります。

これに対しシャンカラは、ポットがなくなっても「布がある」というように、sat-buddhiは存在し続けると反論します。

単に、sat-buddhiが条件付けられる対象がポットから布へと変化したに過ぎません。

sat-buddhi自体が破壊されるわけではないのです。

今度は、もし1つのポットが壊れても、別のポットに対して「これはポットである」という認識を持つことができるため、「ポット-buddhi」は変わらずsatではないかという反論が持ち上がります。

シャンカラはこれに対し、「ポット-buddhi」は他のポットには適用できても、布には適用できないと説明します。

布に対しては「布-buddhi」しか持ち得ません。

しかし、sat-buddhiは、ポットに対しても、布に対しても、あなたが見るあらゆるものに対しても、常にそこに存在します。

したがって、「ポット-buddhi」のような認識は移り変わりますが、普遍的な「ある」という認識であるsat-buddhiは不変である、と主張します。

シャンカラは、「人間の角は存在しない」という表現にもsat-buddhiが結びつくと述べます。

「角がある」「人間がいる」の「ある」「いる」という認識はsat-buddhiです。

「人間の角がある」という認識は間違いで、「人間の角は無い」という認識は正しいものです。

この「無い」という認識が「ある」のですから、sat-buddhiは、どのような形でも変化しません。

sat-buddhiは、熟睡中ですら常に存在しています。

私たちが眠りを求めるのは、その体験が心地よく、そこに「私」という意識が存在していることをに知っているからです。

sat-buddhiは夢の中にも存在し続けます。