नासतो विद्यते भावो नाभावो विद्यते सतः ।
nāsato vidyate bhāvo nābhāvo vidyate sataḥ |
उभयोरपि दृष्टोऽन्तस्त्वनयोस्तत्त्वदर्शिभिः ॥२.१६॥
ubhayor api dṛṣṭo antas tu anayos tattvadarśibhiḥ ||2.16||
存在のないもの[asat]はどんな存在もなく、 存在[sat]は存在がないことなどない
これら2つの真実が、真実を見る人によって まさに知られている[2-16]
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この詩は、satとasatという、2つの概念を通して、存在の究極的な真実を解き明かしています。
これはクリシュナが説いた重要な教えで、その核心は、astには存在がなく、satには存在がないことは決してない、という点にあります。
asat は、独立して存在しないもの、つまり、その存在を他の何かに依存しているものを指します。
例えば、寒さや暑さといった感覚は、知覚といった他の要素に依存して初めて認識されるため、独立した存在ではありません。
また、壺は土という原因[kāraṇa]に頼って存在するため、壺そのものが独立した実在を持つわけではありません。
シャンカラも、世界に存在するあらゆるものは、その原因に依存しており、常に変化し続ける[abhicarati]単に形[vikāra]に過ぎないと説明しています。
壺は土の形に過ぎず、土自体が壺なのではなく、土がなければ壺は存在しません。
時間によって限定され、変化し続けるものは、すべてasatに分類されます。
一方で satは、決して変わらないもの、常に存在し、否定されることがないものです。
asatがその存在を享受しない(存在がない)のに対し、satは常に存在します。
この詩は、satもasatも、私たちに悲しみをもたらすことはないと結論付けています。
asatはそれ自体で存在しないため、悲しみの原因にはなりえません。
そして、ヴェーダの視点では、私はsatであり、他のあらゆるものはasatです。
satである私は、それ自体が悲しみの原因となることはありません。
すべての問題は、satとasatの間の混同から生じるとされています。
asatには存在[bhāva]がない、つまり、それは過去、現在、未来の3つの時間を通して存在するもの[bhāva]ではありえません。
bhāvaは「存在」を意味し、存在するものはbhāvaであり、存在しないものはabhāvaです。
◎存在と存在がないことの分析
「全く存在しないもの」を指す言葉がtuccha、具体例として「人間の角」が挙げられています。
角も人間もそれぞれは存在しますが、両者を組み合わせた「人間の角」は現実には存在しません。
このようなものは、文字通り「存在しない」と断言できるものです。
現代のギーターの解釈では、asatをtucchaと同じ意味で捉えがちですが、これは違います。
なぜなら、存在がないものは存在がありませんと言う必要がありませんから。
この詩におけるasatは、tucchaとは異なり、asatはリアリティの秩序を持ちます。
satでも tucchaでもない、第三の存在しない種類を指します。
例えば、感覚器官やそれらが捉える対象は、tucchのように全く存在しないとは言えません。
目が見えなかったら感覚器官とは言えませんが、目自体は存在し、形を捉えることができます。
しかし、これらが独立して存在しているsatかというと、そうではありません。
感覚器官は、それらが捉える対象がなければ機能せず、また対象も感覚器官がなければ認識されません。
つまり、一方の存在がもう一方の存在に依存しているのです。
この依存関係にあるものは、全て、何にも頼らずそれ自身で存在するsatに依存しています。
感覚器官やそれらが捉える対象、そして喜びや苦しみといった反応は確かに存在しますが、それらは独立した存在ではありません。
したがって、全く存在しないtucchaでもなく、独立して存在するsatでもない、この中間的なもののためにasatという言葉があります。
asatのもう一つの同義語はmithyāです。
asat、またはmithyāは、独立した存在を持たず、その存在をサトに依存しているものを意味します。
satが存在するからこそ、asatも存在し得るのです。
これは、壺が土に頼って存在するように、asatもsatから離れては存在できません。
◎物は独立して存在しない
壺を例に説明されるように、壺はもともと土であり、焼かれる前も土です。
壺になった後も、それは「壺の形をした土」に過ぎません。
壺という「創造」は、土に「壺の形」という付け加えられた属性[guṇa]です。
土がなければ壺は存在しないため、壺は土に依存しています。
私たちがこの世界で目にするものはすべて、常に形[rūpa]とそれに付随する名前[nāma]であり、常にvastuに依存しています。
特定の形はasatと呼ばれ、それは、その物の特性を持っていますが、それ自身では存在[bhāva]を持ちません。
映画のフレームのように絶えず変化しており、それが動きとして認識されます。
流れる川の水も常に新しく、同じ水を得ることはないように、私たちが得る知覚はすべて時間によって制約され、見せかけの本質を持っています。
これらは「まるでそこに存在する」ように見えますが、常に変化し続けているため、真に存在しているわけではありません。
シャツはその原因である生地に依存して存在します。
生地がなければシャツは作れませんし、材料なしに想像することすらできません。
このように、独立して存在しないものは、すべてasatと呼ばれます。
satは物がその存在を頼っているものであり、シャツは生地というbhāvaに依存しているため、独立した存在の地位を持っていません。
生地を取り除けば、シャツという物も存在しないのです。
しかし、シャツの原因である生地も、他のものに依存しています。
したがって、単に「原因」というだけで、それがsatであるとは限りません。
真のsatまたは satyaは、それ自身の栄光によって存在し、その存在を他の何にも依存しないものを指します。
原因となるものも、その原因に依存している限り、それらもまたasatです。
◎なぜ、私達はアサトの中にサトを見るのか?
私たちが世界をリアル[sat]だと感じるのは、あらゆる認識[buddhi]には2つの側面があるからです。
1つは対象そのものの認識[物buddhi]、もう1つは「あるという認識[sat-buddhi]」です。
問題は、私たちが移り変わる対象の認識[asat-buddhi]を、「ある」として捉えてしまう混乱にあります。
この混乱が、喜びや苦しみ[sukha-duḥkha]につながるのです。
例えば、壺を見たとき、「壺がある」という認識が生まれます。
この壺-buddhiは、映画のコマのように常に移り変わるため、asat-buddhiと呼ばれます。
一方、変わらない「あるという認識」 はsat-buddhiです。
壺が木に置き換わったとしても、「壺がある」から「木がある」に変わるだけで、「あるという認識」自体は消えません。
壺はasatなので移り変わりますが、常にそこにあるsatは、今度は木と共にあるのです。
木が枝に、枝が葉に、葉が葉緑素に、葉緑素が粒子に変わっても、最終的に残る「あるという認識」は決してなくなりません。
この残るものが「ある[sat]」という認識です。
これは常に存在し、決して変わらないためsatと呼ばれ、一方、その認識が移り変わるものはasatと呼ばれます。
私たちはasatを毎回異なるものとして認識するからです。
したがって、全ての知覚には、常に変化する「物-buddhi」と、決して変わらない「ある-buddhi」の2つが存在します。
「青い壺」という表現では、「青い」は壺の形容詞として壺を修飾します。
しかし「存在する壺」あるいは「これは壺である」と言う時、「存在」が壺の形容詞と考えるのは誤りです。
そうではなく、壺が「存在」に対する形容詞であり、「壺らしさ」が「存在(土)」を修飾しているのです。
「壺がある」という時、そこには「ある認識[sat-buddhi]」と「壺の認識[asat-buddhi]」の2つの認識があります。
物buddhiだけが移り変わり、sat-buddhiは、壺や木、人、体など、どのような形の中にも常に存在します。
「ある」は思考の形の中にもあります。
思考がなければ、そこにあるのは、思考を超えた純粋な存在です。
身体や世界を超えたところに、真の存在[sat]があります。
この存在[sat]は、何が付け加えられようと、何が差し引かれようと、一切影響されることなく、常にそこにあり続けるのです。
◎「ある」という認識はいつもとどまる
sat-buddhそのものは決して変わりませんが、条件付けられる方が変化を請け負います。
壺は壊れても、「壺があったが、今はもうない」というように、その認識[ghaṭa-buddhi]はなくなります。
しかし、「ある認識[sat-buddhi]」までなくなったりしません。
私たちは「壊れた壺がある」と言ったり、壺がなくなった場所には「何か他のものがある」と言ったりします。
つまり、特定の名前と形[nāma-rūpa]によって条件付けられていたasat-buddhiがなくなっただけで、sat-buddhi自体は常に存在し続けます。
sat-buddhiは、壺の形や木の形など、様々なnāma-rūpaによって一時的に条件付けられます。
壺が壊れても、そのnāma-rūpaはなくなりますが、sat-buddhiは「壊れた壺がある」という形で存在し続けます。
asatだけが変わり続けますが、その「ある」という存在は決して消えません。
この「ある」の不変性を理解できなければ、私たちは自分自身[ātmā]、つまりsat-vastuが「ゼロである」と誤解してしまう可能性があるのです。
ātmāだけが存在し、他のすべてのものは、そのsat-buddhiの単なる付加であるnāma-rūpaに過ぎません。
この「付加」は、土に壺の形が付加されても、土そのものに変化がないように、sat-buddhiに何の変化ももたらしません。
これがヴェーダーンタのヴィジョンです。
sat-bddhiは、常に様々な属性によって「まるで」条件付けられているように見えます。
木の中に「ある」、壺の中に「ある」といった具合です。
移り変わるものはasat(mithyā)ですが、satは常に同じにとどまります。
では、そのsatとは何でしょうか?
sat-buddhiとは、存在・意識[sat-cit]です。
存在は意識です。
意識、sat-buddhiは、常に知識の形で何かとつながり、それを明らかにします。
壺が存在し、壺がなくなれば木が存在する。
すべての物がなくなったとしても、「私がある[aham asmi]」という認識は残ります。
この「私がいる」という存在こそが、究極のsatです。
◎2つの考えの間の意識
シャンカラは、2つの思考の間にある意識に注目します。
たとえ思考が途切れても、意識は常に存在し続けます。
意識が存在するために、すべてのものが消え去る必要はありません。
何かが現れても、すべてが消え去っても、意識は常に「ある」のです。
この唯一の存在であるsatこそが意識です。
「ポットがある」という認識は、ポットが壊れれば消滅するため、ポットと同様にmityāではないかという反論があります。
これに対しシャンカラは、ポットがなくなっても「布がある」というように、sat-buddhiは存在し続けると反論します。
単に、sat-buddhiが条件付けられる対象がポットから布へと変化したに過ぎません。
sat-buddhi自体が破壊されるわけではないのです。
今度は、もし1つのポットが壊れても、別のポットに対して「これはポットである」という認識を持つことができるため、「ポット-buddhi」は変わらずsatではないかという反論が持ち上がります。
シャンカラはこれに対し、「ポット-buddhi」は他のポットには適用できても、布には適用できないと説明します。
布に対しては「布-buddhi」しか持ち得ません。
しかし、sat-buddhiは、ポットに対しても、布に対しても、あなたが見るあらゆるものに対しても、常にそこに存在します。
したがって、「ポット-buddhi」のような認識は移り変わりますが、普遍的な「ある」という認識であるsat-buddhiは不変である、と主張します。
シャンカラは、「人間の角は存在しない」という表現にもsat-buddhiが結びつくと述べます。
「角がある」「人間がいる」の「ある」「いる」という認識はsat-buddhiです。
「人間の角がある」という認識は間違いで、「人間の角は無い」という認識は正しいものです。
この「無い」という認識が「ある」のですから、sat-buddhiは、どのような形でも変化しません。
sat-buddhiは、熟睡中ですら常に存在しています。
私たちが眠りを求めるのは、その体験が心地よく、そこに「私」という意識が存在していることをに知っているからです。
sat-buddhiは夢の中にも存在し続けます。