नासतो विद्यते भावो नाभावो विद्यते सतः ।
nāsato vidyate bhāvo nābhāvo vidyate sataḥ |
उभयोरपि दृष्टोऽन्तस्त्वनयोस्तत्त्वदर्शिभिः ॥२.१६॥
ubhayor api dṛṣṭo antas tu anayos tattvadarśibhiḥ ||2.16||
存在のないもの[asat]はどんな存在もなく、 存在[sat]は存在がないことなどない
これら2つの真実が、真実を見る人によって まさに知られている[2-16]
-
◎リアリティの2つの秩序
すべてがasatなら、なぜ私たちは世界をリアルに感じるのか、という質問があるかもしれません。
これは、あらゆる認識には、物に関する認識[asat-buddhi]と「ある」という認識[sat-buddhi]の2つがあるためです。
問題は、satとasatという異なるリアリティの秩序を持つものが、どうやって結びつくのか、という点です。
鏡に映った口にスプーンが届かないように、異なる秩序のものは互いに作用しないはずだからです。
しかし、シャンカラはこれに対し「問題はない」と答えます。
satは、どんなものにも結びつくことができるからです。
例えば、砂漠の蜃気楼は実際水がなくても、私たちは「水がある」と認識します。
ここでは、asatである蜃気楼に、sat-buddhiが結びついています。
つまり、「ある認識[sat-buddhi]」は、現実のものであろうと、想像のものであろうと、どんなものにも、そしてすべてのものにも結びつくのです。
sat-buddhiがasat-buddhiと結びつくのを妨げるルールはありません。
なぜなら、satは、その上に投影されるどんなものに対しても反発しないからです。
想像上の壺であれ、本物の壺であれ、あるいはロープが誤って蛇に見える場合であれ、sat-buddhiはあらゆる種類の認識に結合します。
「想像上の壺がある」「蛇がいる(たとえ後でロープだと分かっても)」「ロープがある」どんな状況でも、sat-buddhiは常に存在し、結合します。
このsat-buddhi-viṣayaこそが自分自身であり、satと呼ばれるものです。
satには存在しないこと[abhāva]は決してありません[sataḥ abhāvaḥ na vidyate]。
身体も思考の場合もasatです。
私たちが「考えがある」と言う時、その「ある」は意識です。
意識が存在し、思考はその意識に付随する名前と形に過ぎません。
外側に特定の対象を持つ思考は「知覚」と呼ばれますが、知覚であろうと、推論、想像、記憶であろうと、思考が「ある」は、nāma-rūpaによって条件付けられた意識に他なりません。
そして、もしnāma-rūpaがなければ、残るのは常に変わらない意識そのものなのです。
◎存在は意識
シャンカラは、自分自身の本質について、sat-cit-ānandaという言葉を用いて説明します。
存在[sat]は常に意識[cit]である自分自身です。
なぜなら、それ自身で存在できるものだけがsatであり、citでなければsatではあり得ないからです。
同様に、satでなければcitではあり得ません。
あらゆるものが、このsat-citに依存しているため、sat-citは時間や空間を超えたもの[ananta]です。
意識は、限りのないもの[ananta]であり、また満足[ānanda]でもあります。
人々が常に満足を求めているのは、このsat-citが本質的に満足であるからです。
sat-cit-ātmanから見れば、自分自身と他のすべてのものの間に距離はなく、すべてがそこから離れて存在することはありません。
認識において、主体も客体も、知識の道具である思考[vṛtti]のすべてが、sat-cit-ātmanなのです。
このようにsat-cit-ānandaこそが自分自身の本質です。
satは決して消滅することはなく、一方asatは絶えず変化し続けるため、そのままで維持されることはありません。
satは「ある」という認識[sat-buddhi]の本質であり、asat-buddhiの本質は名前と形[nāma-rūpa]です。
「ポットがある」「椅子がある」と言う時、その共通の「ある」がsat-buddhiです。
この「ある」は、ポットや机などと呼ばれる名前と形によって条件付けられています。
「何かがある」と言う時、その「ある」が基盤であり真実[satya]であり、nāma-rūpaは、このsatに依存するmityāです。
「私がいる」「彼がいる」「あれがある」といった表現の中の「いる」「ある」は、すべて1つの同じものです。
それぞれが示す「ある」は、存在するすべてのものの共通の基盤ですから、それは原因[kāraṇa]、すべての源であり、satyaと呼ばれます。
そして、そこから現れた世界、つまり結果[kārya]は、その存在をkāraṇaに依存しているため、mityāと呼ばれます。
ヴェーダーンタは、この原因と結果、すなわちsatyamとmityāの議論[kāraṇa- kārya-vāda]に他なりません。
◎結果とその原因
シャンカラは解説で、現れたもの[kārya]は、mityā(asat)だと述べます。
現れたものは、その原因に依存しているためmityāです。
一方、satは、何にも依存せず、いかなる変化も受けません。
satには存在しないということがあり得ません。
私たちは常に「ある」という認識を持っていますが、これはsatに基づいています。
物という認識は、sat-buddhiに依存します。
壺は土に依存し、その土も原子、原子も量子、量子も概念に依存し、そして、概念は、それを目撃する意識[sākṣī]に依存しています。
この意識こそが、それ自身で存在すし[svataḥsiddha]」、他の何にも依存していません。
ですから、それ自身で存在するātmāだけが真のsatyaで、satyaに依存する他の全てはmityāです。
satyaであるātmāに、存在しないということはありません。
asatには真の存在はありませんが、経験上のリアリティ[vyavahāra]として存在します。
このsatとasatについての究極の理解は、ブランマンの真実を見る人[tattva-dardarśī ]によって到達されます。
tattva-dardarśī とは、あらゆる物の真実[tattva]、つまりその本質を見ぬけることができる人を指します。
シャンカラは、このtatがブランマンで、tattvaとは、ブランマンの本質[svarūpa]を意味すると説明しています。
◎ブランマンの真実
ブランマンは、何にも条件付けされない存在[satya]、知識[jñāna]、限りがない[ananta]純粋[jñāna]、永遠[nitya]など、これらそれぞれの言葉の、様々な、含み示された意味[lakṣaṇa]を通して理解されることが出来ます。
ブランマンは世界の原因[kagat-kāraṇa]であると同時に、それ自体がsatya、 jñāna 、anantaです。
ですから、これがブランマンのsvarūpaで、tattvaと呼ばれます。
ブランマンは、satyaであるだけでなく、全ての源[kāraṇa]ですから、全てのものはブランマンです。
ブランマンと、全ての名前と形を足したものが、ここにある全てのものです。
ブランマンの真実を見る人[tattva-dardarśī ]は、satとasatの両方を理解します。
asatはsatに頼っていますが、satはasatに頼っていません。
この真実を知るtattva-dardarśīこそが、前に述べられた賢者[paṇḍita]、つまり悲しむことのない人々です。
彼らが悲しまないのは、真実を知っているからです。
人が悲しむのは、asatを理解していないからです。
asatは本質的に「去ってしまう」ものであり、リアルではないので、asatのために嘆くことはできません。
satyaの理解が欠けていると、mityāがsatyaであるかのように見え、混乱が生じます。
mityaはsatyaなしには存在しませんが、mityāはmityāとして、satyaはsatyaとして理解されなければなりません。
そうして初めて、全てのことが辻褄が合います。
satyaは悲しみを生まず、mityāも悲しみをもたらす理由を持ちません。
もし悲しみがあるなら、それ自体がmityāです。
◎サッテャとミッテャーの混乱
ここからの物語は、satyaとmityāの概念の混乱を、ある王様の宮廷にいた二人の学者の例で説明しています。
一人目の学者は、アドヴァイティー(一元論)で、ブランマンはsatyaであり、世界はミmityāであると主張しました。
彼にとって、原因はsatyaであり、結果である全世界はmityāでした。
彼は、王様がブランマンであると語ることで王様の精神状態を良好に保ちました。
二人目の学者は、ドヴァイティー(二元論)で、王様はブランマンではなく、プンニャとパーパのの対象であり、結果、造られたものだとと説きました。
この学者は、自分が言っていることは聖典で述べられている真実であると主張し続けました。
彼は、毎日の教えの中で、ヴェーダーンタを引用することによって、彼の発言を証拠立てることさえしました。
ある日、王様と両学者が巡礼の旅に出かけ、森で巨大な象に遭遇しました。
アドヴァイティーの学者は一番に象を見て逃げ出し、王様やドヴァイティーもそれに続きました。
翌日、ドヴァイティーの学者は、アドヴァイティーの学者が「世界はミッテャー」と言いながらも、ミッテャーであるはずの象から逃げたことを指摘し、彼の教えは矛盾していると王様に訴えました。
これに対し、アドヴァイティーの学者は次のように答えました。
「王様、象は確かにmityāです。しかし、逃げることがsatyaだとは、いつ私が言いましたか? 逃げることもまたmityāなのです! 私の中に悲しみや恐れは見つかりません。私はただ、するべきことをしただけです。」
これがヴェーダーンタの宇宙観です。
ヴェーダーンタは、ある認識[sat-buddhi]の立場からは全てがサッテャであると言い、asat-buddhiの立場からは全てがmityāであると言います。
この視点では、何も否定されません。
全ての行いも、行いをする人もmityāです。
なぜなら、それらは絶えず変化するものであるからです。
ātmāだけがsatyaです。
賢者のように、satyaとmityāの両方を明確に理解できれば、悲しむ理由はありません。
satには終わりがなく、常に存在します。
一方、satに依存し、単なる名前と形であるasatには本当の存在がなく、ゆえにmityāです。
◎ミッテャーという説明がつかないもの
mityāとは、bhāvaでもなければabhāvaでもなく、それは、それ自身の存在を持たず、完全に無いということでもありません。
それは、何か中間のもので、私達が「mityāは説明できない」言う時に意味することです。
リアリティ[sat、vastu]は、説明できないという人々がいますが、ヴェーダーンタの宇宙観は、まさに反対です。
唯一、vastuだけが、たとえ、言葉で直接説明するのが難しいものだとしても、明らかにされることが出来ます。
そして、他の全てのものは、説明できないものです。
◎真実は定義されることができるか?
一般的に真実は定義できないと考えられがちですが、真実だけが定義されることができます。
それ以外の全てのものは、条件付きでしか定義できず、さらなる説明が必要です。
mityāは、ある[sat]でも、無い[tuccha]でもない、中間的なものとして定義されます。
それはそれ自身の独立した存在を持たず、完全に存在しないわけでもありません。
そのため、mityāは「説明できない」とされますが、これは「全く理解不能」という意味ではなく、「カテゴリー分けして定義することができない」という意味です。
過去、現在、未来の3つの時間全てにおいて否定できないものがsatyaであり、3つの時間全てにおいて全く存在しないものがtucchaです。
そして、そのどちらでもない中間にあるものが、mityā、あるいはasatなのです。